哀愁の情熱

自分の根っことはずっと繋がっていた。
好きなことしかやってこなかった。
好きな勉強をし、遊び狂い、旅に行き、たくさんの愛を色んな男性と育て、
好きなことを仕事にするために留学し、自分のための職業を作り、
好きな人とだけ仕事ができ、体が気持ちいい働き方ができる環境を生み出した。

コミュニケーションプロセスデザイナーとして
積み上げてきたものはどれも大好きなことばかり。
すべてに愛と誇りがあった。

でも情熱ではなかった。
私はパッショネットではなかった。
それでよかった。

今月、ベルリンに戻って来てから自分のパッションと繋がった。
愛と情熱の違いを悟った。

これまでは社会のコンテクストに合うように
情熱を鋳型に流し込んできた。
そうとは知らずにやっていた。
好きなことを追求してきたから鋳型に流すことは苦じゃなかったし、
自分の真意や哲学に沿って歩いてきた。
研究したい専攻がある大学を受験し、
大学生として自由な勉強をし、
大学で学んできた面白いことをビジネスに繋げるために留学し、
院で修めた専門性をありのまま使える仕事を始めた。

高校生の時の大学選びの基準は
人間と文化について学べる学部があることだった。

ずっと変わらない。

螺旋を巡り巡って
上昇気流、原点回帰。

ベルリン渡航準備でお金と愛と信頼の循環実験を始め、
こちらに移住してから1年かけて
人間の動物としての本来性を探求するための、
意識と身体とコネクトしつづけるための、
起きている意識と夢の意識の敷居をなくしていくための、
毎日の暮らし方をゆっくりじっくり整えてきた。

整って、一旦離れて、また戻ってきて、
この生においてやり続けたいことを発見した。
否、発見ではない。リコネクト。

だってずっと変わらない。
同じものを見てる。

でももっと広く高い螺旋状の輪に辿り着いた。

私がやりたいのはやっぱり人間の意識という広大なる大自然の冒険。
これまで社会の文脈の中でスポットを見つけたり、
自らスポットを作ったりしてきたけれど、今いる場所は違う。
いわゆる経済活動でも、研究活動でも、アート制作でも、
ポリティカルアクションでも、環境活動でもない。
いよいよ「何者でもない」になっていっている。
ただいのちであること。
動物として生きるというアート。

大学選びという所から始まった探求は年齢がちょうど倍になって、
アウトオブコンテクストな真空管にポッと紛れ込んでしまった。
アウトオブザボックスってイノベーティブでポジティブな感じがするけど
アウトオブコンテクストってちょっとアホな子みたいだw
でも馴染みある懐かしい響き。

私はこういう人間。
一生かけて取り組みたいことが
雲を掴むようなことなんだから仕方ない。
優しい諦めがわたしを包み込む。

でもやっぱり、他者とコミュニケーションが取りやすく(概念化できる)
社会の文脈の中にあるものがパッションとなっている
周りの多くの人たちを淡い羨望の眼差しで眺める自分もいる。
ソーシャルグッドとか、貧困解決とか、子供の可能性とか、平和とか、
病気の撲滅とか、食とか、健康とか、女性の地位向上とか、テクノロジーの発達とか、
建築とか、都市設計とか、政治活動とか、エンターテインメントとか、
絵描きとか、ダンサーとか、小説家とか、ヨーギとか僧侶とか。
やりたいことが社会の何かのためになっている。
表現し、ここに何かを残したい強い衝動を持っている。

私のパッションは「何かや誰かのため」がないし、
表現すること(一時停止し、つかみ取り、外にコミュニケートする)
にもはや必ずしもドライブを感じない。
ただ単に人間の意識と体、ネイチャー、本能、動物らしさを開拓したいだけ。

だから、他者にとっても価値があり、意味があり、目的がある仕事を持ち、
説明(比較的簡単に)可能に生活をしていないことに哀愁を感じる。

そう哀愁。
なぜ自分はそう生まれて来なかったんだろう?って。

コアと繋がって、バッションに従って生きていく決意をした。
でも、どうして自分はこうなんだろう?
どうにもこうにも言葉にしにくいし、
社会に役に立つことに興味は無いし、
なんとも曖昧なことに魅了されている自分を
とても哀しく感じるのだ。

己であることの哀しみ。

パッションを見い出すってエキサイティングで
喜びに満ちたアップリフティングなことではないの?
こんな哀しみに支配され
体を揺らしながら涙するなんて。

でも仕方ない。
甘い降伏。

10代の頃のバイブルを思い出す。カミュの『異邦人』。
母の葬式の日に、まだよく知らない恋人と情熱的に愛を交わしたムルソー。
銃を何十発と連射して男を殺害した理由を太陽のせいだと言ったムルソー。
私は彼の心理がよくわかった。
「それは太陽のせいだ」は大事な言葉となった。

自分である哀しみに打ち震えながら
異邦人を思い出した。
あの頃抱いた人間存在の葛藤と痛みが
体のここに刻まれていたとは。
鋭く重く支配する痛み。

ああ、やっぱりまたここに帰ってきた。

でも、あの頃と違うことが一つある。
私はもう自己存在を罪とは捉えない。
ムルソーのようには裁かれない。

今の私は自分の情熱を愛し、受け入れ、
それに従って生きること、
従うための方法を見いだすために日々の暮らしを作ると決めた。

方角

人生をアートするとは、小説になるようなグラマラスな毎日を過ごすことではない。言われればすぐに普段の会話を即興パフォーマンスに変えることができる能力でもない。裏山に生えている草木がそのままで完璧な弧を描いているように、平原を駆け抜ける動物が持ちうるすべての力を漲らせているように、一瞬一瞬をあるがままに美しく、満ち足りた状態で、この星に命を受けた生き物の一つとしての本分をまっとうすることだ。社会というコンテクストにおいてミッションや役割を果たすのとは別のこと。

これまでアートする手段としてコミュニケーションを用いてきた。コミュニケーションのプロセスをデザインする。社会や組織から個々の人間関係まで含めた「人との関係性」において、頭に思い描く美しい線が描けるように、コミュニケーションの一筆一筆に意識してきた。何という文字を書くかではなく、筆の払いや墨の濃淡、文字の配置、呼吸との連動に心を配った。

最近はコミュニケーションはメインフォーカスではなくなってきている。死ぬまでずっと追求する題材だが、現時点での最重要モチーフではない。今は呼吸(身体)と意識が鍵だと思っている。コミュニケーションプロセスデザインの定義として、「生まれてから死ぬまで、呼吸のように止むこと無く続けるコミュニケーションは、呼吸と同様に私たちの生存に不可欠に違いない」と謳ってきたが、比喩ではなく実際に自分が働きかける対象が呼吸になった。いずれにせよ、人間が生きているあいだ絶え間なく取り組んでいるものに関心があるようだ。

また、コミュニケーションプロセスデザインではこう書いた。「コミュニケーションは他の生き物とだけではなく、自分自身とも行う。寝ている間でさえ夢を通じてコミュニケーションをする。」今、私は夢という領域へ意識を拡げ始めている。夢の中でもクリアな意識を保ち、起きている時の意識と夢の時の意識の地平を繋げる練習だ。呼吸と夢が数年後になってクローズアップされてきている。とても面白い一致だと思った。

寝ていようが起きていようが、考え事に没頭していようが本を読んでいようが誰かと話していようが、絶え間なく流れる意識の川。しかし私たちは多くの時間、意識の川から離れて岸に上がっている。岸どころか、丘の上までハイキングに行ったり、そこからハングライダーで空を飛んだりしている。自分のそのときそのときの状況、状態を明快に掴みながら1秒1秒進んでいくのは至難の業。

それでも、私は意識の地平の向こうが見たい。冒険家が8000メートルを超える霊峰の頂きや真っ黒い不気味な海底を目指すように。科学者が11次元の世界を仮定するように。そして、人生をアートするために、一瞬一瞬をあるがままに美しく、満ち足りた状態で、この星に命を受けた生き物の一つとしての本分をまっとうするために、重要なthe art (技)となると感じている。

起きている時間と寝ている時間の呼吸と意識の探求。しっかりとこれに従事できる生活環境をさらに整えていくことが2年目だ。この核さえあれば、それ以外は私を求めるところへ赴いて、提供できるものを提供していければいいなと思う。

 

Passion

I’m not paid for institutional or organizational purposes that make sense within the current socio-economic systems.

Money is bestowed to me for existential purposes by people who see the similar world in front of us.

Spent one year exploring a totally new field, I clearly know to what I want to devote my time and space. I will pour my heart into an endeavor to find out what human consciousness is and what capacity it has in relation to the body. I will elucidate what influences would be made on our society and relationships by expanding capacity of human mind. I practice widening the horizon of consciousness through staying awake in a dream and a day. I continue to breathe in and out with awareness. I let go off what’s happening that shifts immediately into the past and stay alerted to the presence. I cherish peace and silence within me without leaning to the others or objects. I’ve attained a peak of contentment and happiness as Naho Iguchi, whose life reaches 34 years.  From now on, I will even more vigorously dedicate my spirit to the process and shape my daily life around that. This is my passion.

I strive to reveal a new form, or “unform,” of art so as to make one’s life, one’s existence, one’s presence a piece of art, because I have a question to the world, can we stay alive, can we be a part of the complexity of the planet and universe, without claiming what our visions are for the future and what we intend to accomplish, without presenting how valuable ideas we have and what meaningful actions we take,  without proving what talents, power, and competencies we have, without justifying why we are who we are.

I hope to be simply alive. I am life. Fulfillment for dying. Everything ceases at the end.

How can I make a breathe, a glance, a stride of my feet, always connected to my artistic crystallization (I don’t use the word, expression because I’m no longer sure if “expressing thoughts and feelings” is the right word to me”) ? How can I be art? Crystallization is a chemical reaction in which a solution or gas becomes a solid crystal. A paradox is that I honestly want to keep a solution or gas as it is, while “art” asks me (and every artist)  to deliver something crystalized, visible, sensible, tangible, and meaningful.

I still have fear and anxiety for money (= the near future) and the way of sustaining my life. The fear doesn’t go away completely. I have no clue how my art-life in Berlin will go.  At the end, however, I don’t know if the fear stems from anxiety for running out of the financial source or not. Am I afraid of the shortage of money? What is it really? I’m very sad when I imagine a situation where my life in Berlin suddenly ends. I have love for the city. I’m building affection and attachment to my living in Berlin. I’m cultivating new soil to be rooted here. Vibration that the city has matches my life phase, what my body and heart want in order to spend each and every moment in happiness, tranquility, and awe for the world. But, this will end sooner or later. Everything ceases eventually. Materials are to be worn down. Occurrences are to begin and end. Am I afraid of losing my life here? No, I’m not but simply sad. It’s truly sad to lose something or someone you are fond of and intensely connected to. Regardless of my feelings, however, things happen. I would be ok when I lose my life here, as long as I stay alive, or I have life. Sadness will be appeased. Most importantly, I’m not losing it  now but perfectly in it!

I’m determined to pursue this journey, following my passion. The path will unfold by itself. The fear and anxiety for my future money and future sustainable life can get in a way and makes me blind and deaf for a few minutes, but they are at last passers-by. I will keep a trial and error of circulating energy with my beloved people and make my life art.

“Thank you for making your life a piece of art”

人生をアートするとはなにか。

人は私をアーティストだと言う。
だから私はアーティストを名乗ってみることにした。
すると(私のことを知らない)人は問うてくる。
「あなたのアートは何ですか?絵ですか?彫刻ですか?」
ストリートパフォーマンスですか?踊りですか?歌ですか?」
「どうやって発信するんですか?エキシビションはいつですか?」

文章を書くのが好き。
絵を描くのは好き。
歌を歌うのも好き。
音と自然に包まれて踊るのは至福。

でも、既存の「これがアートです」という出力方法に囚われず
私独自のアート表現を生み出したい。

楽器、絵の具、コンピューター、劇場といった
エクスターナルなメディアを介して表現をするのではなく、
コミュニケーション、身体、意識そのものを取り扱う。
つまり、自分自身がメディアである。

だから、コミュニケーションプロセスデザインという職業を生み出し、
組織の目的や機能構造ではなく、組織文化をベースに組織を作るという
違った組織デザイン方法を生み出し、
コミュニティ生成が思想の表現形態となり、
生き様に対して愛をもってお金を流す実験を始めた。

どうやって私の生そのもの、
日々の呼吸の一つ一つ、
そこから生まれる一つ一つの意思決定、
意思決定が導く出来事の数々が
アート表現となりうるのだろうか。

社会(圧倒的多数の他者)から「アーティスト」と
認められることを欲していない現時点での私は、
それを無視して自らの探求活動に埋没すればよいのかもしれない。
人からの認識や格付けに依らなくても、自らの内に平安なる静寂をを作れるようになり、
これまでのアイデンティティを静かに手放す練習をしている。
これから先にまた社会や地球に捧げるフェーズがくるのかもしれないけれど、
今は純粋に命を日々、社会貢献や自己実現や目的達成のためではなく、
他の動物や植物のように営むことに充足がある。
意味を見いださなくても、自己が崩壊せず健やかにいれるのだ。
平和ではないだろうか。

何をしていても呼吸に常に気づき、
現実と夢の意識を地続きにすることが
言うなれば私のアート表現の練習だ。
さっとデッサンしたり、ゴルフの素振りをしたり、
シュートの練習をしたり、ピアノを何時間も弾くのと一緒だ。
寝ている間もやっているので、文字通り24時間練習している。

私が追求したいアートは、人間という動物の本来性を知り、
意識と身体の繋がりを拡張させていくことだ。
これだけにフォーカスする生活を送るにはどうしたら
よいかを模索していくのが2年目である。
ワープの入り口に近づいている。

ベルリンに渡って1年未満でAFTER25という作品を発表できたのは喜びだ。
様々なジャンルの人を繋ぎ、直観が教えてくれたベルリンの魅力と
事実とのボタンを一つ一つ掛け合わせながらストーリーを作り、
インスピレーションを与えることができた。
過去にTEDxTokyoとTEDxTokyo yz、Art of Social Innovation, xyzActionなど
いくつものコミュニティ作りを通して学んできたことが結晶化できた。
日本という古巣とベルリンという新天地をまたいで作れたから、
一つ行き着いた気がしている。

1年目をどう(社会と接続するための)アート表現に落とし込むかも考えていきたい。
他者とのやり取りで感じているつっかかりは、
お金を愛で流すという「パフォーマンス」(アート用語での)をしているが、
テーマがメタシステム過ぎて端から分かりにくいことだ。
お金の巡り方そのものを変え、その変化が人の認知、行動、心理や関係性をも
変化させていくという現象を引き起こしているのだが、
ログ&発信をしていないこともあり、アート作品として捉えにくくなっている。
いずれにせよアウトプットをすぐに(2014年中)開始できる感覚はないが、
きっと複数アーティストと境界を越えた共同作品になるだろう。

生きることをアートにする。
今はそれを本能に従ってもくもくと実践し、時がくれば社会と接続し、
他者から受ける期待値を超える明確なアウトプット(アート表現+社会変革)を出せると思っている。

私たちが生きている間はわからないが、
将来、経済活動は芸術そのものになると思う。
ソーシャルグッドやトリプルボトムライン、ソーシャルエンタープライズという
ここ数年で生まれてきた経済の価値軸の向こう。
芸術そのものが経済活動になっていったら、
貧富の差や第3諸国の紛争問題が劇的に変化し得る。
それは、リソースが少なくても、農業や工業や知的財産を製造しなくても
芸術そのものが生きるための活動となるからだ。

自らをアート作品とする。
自らを問いかけとする。
私を見て、人が「これは一体なんだろう?どういうことなんだろう?」
と問い始める存在となること。

マージナルであること。
曖昧であること。
手ではすくえないこと。
でも真理と確かさがあること。

“Thank you for making your life a piece of art.”
パリジャンがかけてくれた言葉が耳の奥で鳴る。

Gin-yu-shi-sou (吟遊思想)

I bought a new book. Just a glance was enough to make a decision. The title goes, “Albert Einstein, Sigmund Freud, Warum Krieg? -Ein Briefwechsel Mit einem Essay von Isaac Asimov”

“Why War?”

A correspondence between Albert Einstein and Sigmund Freud contemplates on the biggest and not yet answered question. An essay by Isaac Asimov follows.

The book sets about with Einstein’s memorandum, “Für einem militanten Pazifismus.”

”Es gäbe genug Geld, genug Arbeit, genug zu essen, wenn wir die Reichtümer der Welt richtig verteilen würden, statt uns zu Sklaven starrer Wirtschafts-doktrinen oder -traditionen zu machen. Vor allem aber dürfen wir nicht zulassen, daß unsere Gedanken und Bemühungen von konstruktiver Arbeit abgehalten und für die Vorbereitung eines neuen Krieges mißbraucht werden. Ich bin der gleichen Meinung wie der groß Amerikaner Benjamin Franklin, der sagte, es hat niemals einen guten Krieg und niemals einen schlechten Frieden gegeben.”

“For an militant Pacifism”

“There would be enough money, enough work, and enough to eat, if we were to properly share the riches of the world, instead of making us slaves of rigid economic doctrines or traditions. First of all, we may not let our thoughts and efforts of constructive work prevented and misused for the preparation for a new war. I am in the same opinion with the great American, Benjamin Franklin, who said, there has never been a good war and a bad peace.”

The question is always there. Never leaves us. I came to Berlin with the same one that Einstein addressed. My experiment is a trial to find out an answer that makes sense at least to me: circulating love and money on the same scale,  making love and trust as an well-accepted currency in the market, and letting human potential abound, that our species intrinsically possess.

I believe that art will become the pillar of the next economic paradigm. This insight steers me to move here and make an experimental art. I coin a word to describe my current way of living: “Gin-yu-shi-sou” (吟遊思想)。  Shi-sou means thoughts and ideas. Gin-yu comes from the word, “Gin-yu-shi-jin” (吟遊詩人),  which means “Bard” or “Minstrel.”  In Japanese, it’s also named  巡遊伶人.

対角線-diagonal-

A diagonal is drawn. From the top of the head to the tip of the tow. From the upper left side to the lower right side of the body. The head, face, neck, shoulder, arm, wrist, hand, fingers, underarm, chest, back, belly, waist, hip, thigh, knee, calf, ankle, and  foot. The hidden inner line crosses me at the center. The left upper side of my body is bent and meets the right leg, touching together. The forehead rests on the knee. Throughout my body, the diagonal line surfaces and connects two disconnected areas: the upper part and lower part; the left side and the right side. When the line starts to run and gains awareness around, an indescribable sensation arouses from the core.  I fold the body. The chest sits on the straightened right leg, and I hug it with my lengthened arms. Energy flows from the right tow to the heart, and continues to rise up to the head. Tears gather into my eyes.

 

 

Psycholinguisticな日本語とドイツ語の話

9月より本格的にドイツ語に力を注いでいます。ヨーロッパでは土地柄、他/多言語を学ぶのは当たり前。カフェでよくタンデムを見かけます。違う母国語同士の人がペアになってお互いの言語を教え合うこと。私もドイツ人の友達とタンデム始めたよ。彼は日本語の他にスウェーデン語、フランス語、ヘブライ語も勉強中。驚異的だよねw

ヨーロッパには言語習得の難易度を表す「桃栗3年柿8年」のようなフレーズがあるらしい。誰かが単に言ってただけかもしれないけど。なんだったっけな。「イタリア語1年、フランス語3年、ドイツ語30年」だったような気がする。それに、こんな映像が作られちゃうくらい、ドイツ語はヨーロッパである意味「ネタ」な言語の様子。

How German sounds compared to other languages

日々ドイツ語が耳に入れば集中して耳を傾けて、機会があればドイツ語を話すように心がけます。ベルリンは名実共にな国際都市だから、かなりの確率で英語が通じる。ベルリンに3、4年住んでるけれどまったくドイツ語話せませんって人は山ほどいるみたい。それでも生きていけるくらいドイツ人の英語習熟度が高いのと、外国人の比率が高い街なのだ。引っ越して間もないこともあって、まだまだドイツ人友達の数が少ないしねー。だから隙あらばドイツ語を聞き、話そうと意識を高く持っておかないと、ドイツにいるのに案外触れる機会は少ないのです。

必死にドイツ語の音をピックアップし、文法を学んでは実際に話したり書いているうちに、第1言語、第2言語に影響を及ぼし始めてるなーとここ数日で気づきました。例えば、ドイツ語では名詞の先頭を必ずキャピタルレターにします。英語では文頭と固有名詞だけキャピタルにすればいいんだけど、気づかぬうちに英語でもすべての名詞の最初をキャピタルで書いてしまっていたり。

ドイツ語でもう一つ特徴なのが動詞の位置。基本的な文章では動詞が2番目にきます。「セカンドポジション」「セカンドアイディア」などと言われるルール。そのかわり、文章の先頭は常に主語じゃなくてもいいし、2番目に動詞を持ってきたら、その後に続く単語はそこそこの自由度で並べ替えが可能(いちよう大まかな法則はある)。これを無意識のうちに英語にも適用し始めちゃってるみたい。英語を書いてると頭の中で二つの言語の文構造が交わり始めて、まるで靄がかかったような視覚的に不透明な感覚に陥って、どこに動詞を置いたらいいか、どこに強調の副詞や否定語を挿入すればいいか、だんだんよくわからなくなって、ほんの一瞬なんだけど手が止まる現象を体験しています。目では自分が打っている英語を見てるのに、目から得た情報を処理する脳みそ側がドイツ語で行われてるというか。

英語とドイツ語はアルファベットがほぼ同じだし文法が似ているから、混同する現象が起こるのは理解しやすい。だけど、同じような認知上の「ズレ」が日本語にも起き始めているんだよね。びっくり。日本語の文章を読んでいるのに、「なんだこれは?何を言いたいのかよくわからないぞ。」と首をひねってしまう。「単にわかりにくい日本語なんじゃない?」という突っ込みがあるだろうけど、私が体験しているのはちょっと違うもの。「そんな日本語じゃ何言ってるかわからん!」ってなつまらない講演や、長々と書かれた的を得ない意見のようで意見じゃない文章(よくあるねw)に対する、「わからんよー」という反応は、意味論(シマンテック)や運用法(プラグマティクス)の範疇。でも、私が日本語に対して抱き始めている違和感現象は、文章構造を作りだす法則=統語論(シンタックス)の範疇。言語を司る脳みそのどこかで、何かしらの変化が起きてるみたいなんだよね。英語と同じことが起きてるのだとしたら、恐らく、日本語の文章を読んでいる(視覚情報として日本語が入ってくる)にもかかわらず、それを処理する脳内プロセッサーはドイツ語設定、ということだ。これによって何が起きるかというと、まず、さっき英語について書いたような視覚的なぼやーっとした感じになる。日本語の文章が融解/分離していくような。文章が文章としてとどまってないというか。パソコンの画面に映る日本語が少し遠く感じるというか。なんだろう。うーん、新しい体験だから的確に文字で描写できないねぇ。とにかく、視覚的なぼんやりした感じが脳内に広まり、そうすると意味もよくわからなくなってきて、浮かんでくる質問は

「この部分の行為者は一体誰?」

「この文章の行為の受け手は一体誰?」

「この部分は何を対象にして、誰に向けて、何の話をしてるの?」

「これって結局誰のことを指してるの?」

曖昧模糊とした文字の羅列に頭がついていけなくなっていくの。簡単にざっくり言ってしまうと、各文章の主格と目的格、そして文全体の意図(誰が誰に向けて、何について話しているのか)を語彙表現ではなく、文構造(シンタックス)の内に明瞭に見いだそうとしているのだ。これはとてもドイツ語的。

もう一つ特筆すべきは、第3言語の介入による第1言語、第2言語の遊離現象は、今のところライティングとリーディングで起きてる。スピーキングとリスニングでは起きてない。目の運動と目からの情報と手の運動。そして、口の運動と耳からの情報。これらに関連性があるのかしら。

第3言語を習得し始めたことによって、過去に学んだもののすっかり忘却の彼方だったフランス語やスペイン語が急に口をついて出たり。

言語と脳の関係っていつでもfascinating。

四月になれば彼女は

“April come she will
When streams are ripe and swelled with rain;
May, she will stay,
Resting in my arms again

June, she’ll change her tune,
In restless walks she’ll prowl the night;
July, she will fly
And give no warning to her flight.

August, die she must,
The autumn winds blow chilly and cold;
September I’ll remember.
A love once new has now grown old.”

by Simon and Garfunkel

 

Luxuriate in Love

(JPN original follows English.)

 

Communication Process Designer is a piece of art that I worked on in Japan. It’s a custom-made profession for me. Communication Process Design (CPD) is philosophy and a practice-based theory. Its premise is that all the phenomena pertaining to human life are accumulation of communication. In other words, any type of human activities result from communication. Communication pervades, regardless of industries, sectors, fields, specialties, professions, religious belief, regions, nationalities, ages, genders, colors, and so forth, whatever is vertically secluded from each other in the systems in our modern society. We perpetually communicate at every second, as we breathe in and breathe out ceaselessly. If we think and act more carefully upon how we carry out moment-to-moment interaction, that will yield a huge difference in the world which we are stuck in. Mindfully designing  process of communication enables us to change in our thoughts, behaviors, attitudes, relationships with others, and world views. It lets us disintegrate old forms within our internal and external systems and recombining them as a new synthesis.

What is a purpose for communication? My answer is, “to weave and shape love and trust with the sentient beings. Why do we endlessly communicate with others as well as oneself on our birth until death? What for? Because it’s essential for human being to survive. Communication is vital and fatal. Given the fact that it is parents (either genetically or socially) who we first communicate with, communication is indispensable to thrive. In order to exist, we need someone who wishes for our existence, those who make us alive. This is love. Until the last day, we strive to develop love towards people, things, and incidents. Family, friends, colleagues, the older, the younger, clients, strangers, celebrities on media, cars, clothes, ideas, concepts, faith, blue sky, sunshine, animals, plants, planets,,,, Anything can be an object for us to bond with through love and trust.

Based on the CPD Philosophy, I experimented in organization and community. Now, a focal point has shifted into life in itself.  To elucidate human life and psychology, money is used as a tool of expression. How can we “exchange” (not in a conventional equal exchange) money with love and trust? How can we utilize money as a container to convey love and trust to someone who you care for. Instead of getting it stagnant and seized, let money flow in and flow out.  Circle inward, circle outward. Circle downward and circle upward. Spiral…

Everyday life is a piece of art. Then, what do I create and produce out of day-to-day life? That is loving relationships that I nurture by interweaving every thread of communication. Fruits of love are ripe and laden. I’m harvesting them. While receiving their juicy sweetness, I water new ones.

My art is our life, through spinning a wheel of communication, to sing for love, taste flavor of love, and luxuriate in love.

 

日本ではコミュニケーションプロセスデザイナーという職業を作ってやってきた。コミュニケーションプロセスデザインとは私なりの哲学であり実践理論体系。その前提(premise)というか仮説(hypothesis)は、「人間の社会的活動の最小単位はコミュニケーションであり、生きるすべての営みをコミュニケーションという形に集約(reduced to)して捉えることができる、というもの。さまざまな産業、分野、専門に分断されている現代社会の「縦」な仕組みに、コミュニケーションという、私たちが呼吸と同じくらい常にしている行為をもってすれば、「横」ではなく、「斜め」から切り込めると思った。

コミュニケーションの目的とは何かという問いへの私なりの回答は、愛と信頼を結ぶこと。なぜ生まれ落ちてから死ぬ間際(死の定義の議論は置いておくとして)まで人間はコミュニケーションを重ね続けるのか?それは人間とう動物が生きるために必要不可欠なものだから。vitalかつfatalであるコミュニケーション。最初にコミュニケーションを取るのが親(代わり)とすれば、それは生き延びるため。成長するため。生き延びるために必要なのは、生かそうとしてくれる存在を作ること。これが愛だ。ここから、死ぬまで私たちは、ヒト、コト、モノに対して愛を育もうとし続ける。家族、友達、同僚、上司、後輩、クライアント、知らない遠い国の人たち、メディアに出てくる人、アイディア、思想、宗教、空の景色、動物、植物、、、あらゆるものが愛と信頼を結ぶ対象。

この哲学をベースに組織とコミュニティの実験をしてきた。そして今は、ベルリンで人生の実験をしている。お金と愛を交換させ、内から外へ、外から内へ巡らせること。捉え、淀ませるのではなく、流す。自分の人生そのものがアートピースだと宣って活動している(俺様ww)。では、私が日々の暮らしでつくりだしているものはなんだろうか?それはコミュニケーションを積み重ねる(プロセス)ことによって育まれる他者との愛情関係。愛がたわわに実って、今は最初の収穫の時。収穫しながらも、新たに育っているものの世話をする。

私の人生というアートピースは、コミュニケーションを紡ぐことで愛を花咲かせ、実らせていくことだ。

Marriage of Sun and Moon

Am I independent?

Yes I am.

Am I dependent?

Yes I am.

One solid pillar runs through my inner core. I call it soul. I call it instinct. I call it intuition. I call it karma. I listen to it. I trust it. I follow it. I surrender to it.

The infinite number of threads are led to the pillar and tie the knots around it.  I call them connections. I call them relationships. I call them communities. I call them support. I call them love.

Independency and dependency on others are completely integrated. Dualism of Individualism and collectivism or independency and dependency dissolve. They aren’t opposite polars.  They can gracefully marry and lead a happy life together.

Knowing how to engage myself in an inner emotional journey, when to have a dialog with my mind, and what wisdom to draw from my soul. Caring for own existence.  Maximizing own time. Purifying own words and deeds.  I savor genuine solitude that I’m given everyday.

showing my weaknesses. Admitting my incapability. Asking for help when needed. Letting go off myself.  Leaning to the shoulders next to me. Believing in spirit of words, “I’m there for you.” Loving back to those who love me. I adore tender intimacy that I’m given everyday.

This is a blissful life.