哀愁の情熱

自分の根っことはずっと繋がっていた。
好きなことしかやってこなかった。
好きな勉強をし、遊び狂い、旅に行き、たくさんの愛を色んな男性と育て、
好きなことを仕事にするために留学し、自分のための職業を作り、
好きな人とだけ仕事ができ、体が気持ちいい働き方ができる環境を生み出した。

コミュニケーションプロセスデザイナーとして
積み上げてきたものはどれも大好きなことばかり。
すべてに愛と誇りがあった。

でも情熱ではなかった。
私はパッショネットではなかった。
それでよかった。

今月、ベルリンに戻って来てから自分のパッションと繋がった。
愛と情熱の違いを悟った。

これまでは社会のコンテクストに合うように
情熱を鋳型に流し込んできた。
そうとは知らずにやっていた。
好きなことを追求してきたから鋳型に流すことは苦じゃなかったし、
自分の真意や哲学に沿って歩いてきた。
研究したい専攻がある大学を受験し、
大学生として自由な勉強をし、
大学で学んできた面白いことをビジネスに繋げるために留学し、
院で修めた専門性をありのまま使える仕事を始めた。

高校生の時の大学選びの基準は
人間と文化について学べる学部があることだった。

ずっと変わらない。

螺旋を巡り巡って
上昇気流、原点回帰。

ベルリン渡航準備でお金と愛と信頼の循環実験を始め、
こちらに移住してから1年かけて
人間の動物としての本来性を探求するための、
意識と身体とコネクトしつづけるための、
起きている意識と夢の意識の敷居をなくしていくための、
毎日の暮らし方をゆっくりじっくり整えてきた。

整って、一旦離れて、また戻ってきて、
この生においてやり続けたいことを発見した。
否、発見ではない。リコネクト。

だってずっと変わらない。
同じものを見てる。

でももっと広く高い螺旋状の輪に辿り着いた。

私がやりたいのはやっぱり人間の意識という広大なる大自然の冒険。
これまで社会の文脈の中でスポットを見つけたり、
自らスポットを作ったりしてきたけれど、今いる場所は違う。
いわゆる経済活動でも、研究活動でも、アート制作でも、
ポリティカルアクションでも、環境活動でもない。
いよいよ「何者でもない」になっていっている。
ただいのちであること。
動物として生きるというアート。

大学選びという所から始まった探求は年齢がちょうど倍になって、
アウトオブコンテクストな真空管にポッと紛れ込んでしまった。
アウトオブザボックスってイノベーティブでポジティブな感じがするけど
アウトオブコンテクストってちょっとアホな子みたいだw
でも馴染みある懐かしい響き。

私はこういう人間。
一生かけて取り組みたいことが
雲を掴むようなことなんだから仕方ない。
優しい諦めがわたしを包み込む。

でもやっぱり、他者とコミュニケーションが取りやすく(概念化できる)
社会の文脈の中にあるものがパッションとなっている
周りの多くの人たちを淡い羨望の眼差しで眺める自分もいる。
ソーシャルグッドとか、貧困解決とか、子供の可能性とか、平和とか、
病気の撲滅とか、食とか、健康とか、女性の地位向上とか、テクノロジーの発達とか、
建築とか、都市設計とか、政治活動とか、エンターテインメントとか、
絵描きとか、ダンサーとか、小説家とか、ヨーギとか僧侶とか。
やりたいことが社会の何かのためになっている。
表現し、ここに何かを残したい強い衝動を持っている。

私のパッションは「何かや誰かのため」がないし、
表現すること(一時停止し、つかみ取り、外にコミュニケートする)
にもはや必ずしもドライブを感じない。
ただ単に人間の意識と体、ネイチャー、本能、動物らしさを開拓したいだけ。

だから、他者にとっても価値があり、意味があり、目的がある仕事を持ち、
説明(比較的簡単に)可能に生活をしていないことに哀愁を感じる。

そう哀愁。
なぜ自分はそう生まれて来なかったんだろう?って。

コアと繋がって、バッションに従って生きていく決意をした。
でも、どうして自分はこうなんだろう?
どうにもこうにも言葉にしにくいし、
社会に役に立つことに興味は無いし、
なんとも曖昧なことに魅了されている自分を
とても哀しく感じるのだ。

己であることの哀しみ。

パッションを見い出すってエキサイティングで
喜びに満ちたアップリフティングなことではないの?
こんな哀しみに支配され
体を揺らしながら涙するなんて。

でも仕方ない。
甘い降伏。

10代の頃のバイブルを思い出す。カミュの『異邦人』。
母の葬式の日に、まだよく知らない恋人と情熱的に愛を交わしたムルソー。
銃を何十発と連射して男を殺害した理由を太陽のせいだと言ったムルソー。
私は彼の心理がよくわかった。
「それは太陽のせいだ」は大事な言葉となった。

自分である哀しみに打ち震えながら
異邦人を思い出した。
あの頃抱いた人間存在の葛藤と痛みが
体のここに刻まれていたとは。
鋭く重く支配する痛み。

ああ、やっぱりまたここに帰ってきた。

でも、あの頃と違うことが一つある。
私はもう自己存在を罪とは捉えない。
ムルソーのようには裁かれない。

今の私は自分の情熱を愛し、受け入れ、
それに従って生きること、
従うための方法を見いだすために日々の暮らしを作ると決めた。

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