形見

父が遺してくれたものってなんだろう?

 

あ、そうか。わたしだ。

 

というrealizationを得たのは、遠く離れた異国の地でだった。

 

1つの文化圏で形成された自我を破壊し、国や言語をまたいだ複数の文化を融合していくことで、化学反応が起き、浄化され、自らが新しい文化の源(culture)となる。その過程における大きなステップとして、ベルリンにやってきた。

生きたい生き方、過ごしたい時間の過ごし方に近づいていっている。

自分のsourceに近づいていっている。

ここまで辿り着けて、今、死んでも悔いはないなと思った。

気負うことはなく。

大げさな話ではなく。

死に対する恐れが抹消されたわけでもなく。

ただ、何気なく、通りのアイスクリーム屋さんに立ち寄るような気さくさで、

今、死んでも悔いはないと思った。

 

母や他の人のことを考えたらまだまだ死ねないけどね!

虫の観察

アリやハチを見ていると一見、効率が悪い。何十、何百という花をブンブン飛び回って1つ1つ蜜があるかないか確かめているハチ。体が小さいし、花も小さいから一度に吸える蜜の量はたかが知れている。アリは自分の何十倍の大きさの虫の死骸を仲間のアリと数匹で引っぱって運ぶ。リアカーでもあれば便利なのに、アリには道具がない。発明されてもいない様子。しかし、これはアリやハチの成し遂げたいことに焦点を当てた時の効率の話。もしハチが、ブンブン花から花へと飛び回らなければ、花の受粉は進まないだろう。アリやハチの非効率性は大きな視点で見たら、たいそうよくできた効率性なのだ。自分たちの目的達成のためだけの効率の良さは、逆により大局的な成り立ちにおける効率を妨げうるんだと思った。

Everyday of my life is a piece of art

2003年8月、23歳だった私はバックパック1つとスーツケース1つを持ってカリフォルニアに渡りました。大学時代に就職活動をせず、米大学院で組織心理学を学ぼうと決めたからです。でも、これといった出願準備も移住準備もしていませんでした。外国の学校なんて日本で情報集めて考えてるだけじゃわからない。実際に行って探索して決めていこう。そんでどうせなら、その前にバーニングマンに行っちゃおう!というわけで、最初はロスに入ってのんびり。そこからバーニングマンに一緒に向かう仲間とレンタカーをしてバークレーへ北上。さらに仲間と合流してネバダの砂漠に乗り込みました。1週間の狂宴の後、仲間が日本に戻った後も1人残り、友達の友達の家に転がりこみ、アメリカ生活が始まりました。

5年後、日本に帰国。そしてまた5年経ちました。

2013年6月、33歳の私はスーツケース2つを持ってベルリンに渡り、友達の家に転がり込みました。健康保険、銀行、ビザ関連の調査など日本でやっておくべきことだけはしっかりと整えて来たのは、アメリカ時代でのスリリング(今は笑えるけど相当な綱渡りだったなぁ)なやり方から得た教訓。でもそれ以外は、いやそれ以上に、これからここで何をするのか、どう人生を描いていくのか、まったくの白紙。駐在でもないし、学校に行くわけでもない。私の中に眠っている種が芽生える新しい土と水と太陽のある場所にやってきました。だから種が芽生えていく様子を観察したいんです。

10年前は真っ白い砂嵐にまみれながら精神と身体のギリギリを真っ向から味わった1週間が、新しい暮らしのキックオフでした。今回はドイツの美しい平原に囲まれた奥地で沈黙とともに精神と身体の境界線を越えていく1週間を過ごした後、ベルリンでの生活が始まります。

大いなる成長がありながら、まったくもって幾つになっても変わらない魂。

翼の話

4月末からGWにかけて、長野と関西に行った。父の五回忌は長野のひなびた温泉地へ。父と私は温泉友達だった。その後、3月に一周忌を迎えた友のお墓参りに奈良へ赴き、そこから京都、高野山、京都と旅をしてきた。

出国前に2人の墓前に挨拶をできてよかった。アメリカ在住時代の1番身近な友達の1人が彼だった。父の命日は私のアメリカ生活最後の日になったのもあり、2人の死は、人生の一つの時代に明確な区切りをつけるものだった。何をも怖れず、守るものがあることや、生きることがどういうことかをまだ知らずにいた、無知がもたらす輝かしさ。10代ほど幼気でもなく、30代ほど謙虚でもない、20代だけが持つnaiveさゆえの強さ。それは空を飛べる翼だった。

翼がもげ、意図せぬ形で戻ってきた日本。ここはもしかしたら体を回復させる休息地だったのかもしれない。休息という言葉とは裏腹のえぐられるような日々だったけれど。何度も何度も脱皮を繰り返し、傷を癒し、膿を出し、痛みに葛藤した。そしてやっと新たな翼が生え、飛び立てるだけに成長したように思う。その間にしっぽも生えた。

日本での5年間は、アメリカで失った翼を取り戻すための費やされたような気もする。2人の死者の墓前に向かうことは、これから新たな異国の地へ旅立つ前の儀式だったのかもしれない。

 

解放

年末年始は家におにぃが帰ってきています。今夜は葉山のお寿司屋さんにママンと3人でお夕食を食べに行きました。私の渡欧の件、昨年の春頃からママンには刷り込んできていました。秋にはおにぃに報告し「好きにしなさい。」と言ってくれました。

不思議なもので、1対1だと気張れば言えることが、同じ相手でも「皆揃って」になると言い辛くなることってあって。なんだろね。「公認の事実」のパワーすごし。

「よし、新年2日目だし改めて家族の前で渡欧のことを話そう!」と思い、ドキドキしながら言う機会を伺っていたら、ママンが予期せぬキラーパス。「ナホちゃんまた出てっちゃうのよ。」

いや〜、集団の利点は自分だけで気張らなくてもいいとこですね(笑)。全部1人でやろうとしなくても、相手が勝手にやってくれる時がある。そんなわけで、和やかに家族内の周知のこととなり、渡欧へ大きく大きく一歩近づきました!何と言っても、ただ1つの心配は、初めての1人暮らしになるママンと、とにかく色んなことをまるっと引き受けてくれてるおにぃだったからね。

ママン「すぐ帰ってくればいいのに〜。」

おにぃ「1、2年、楽しんだら帰ってきたらいいよ。」

という言葉にはホッとしたわぁ。行くことも、帰ってくることも異議無し。井口家は、各々の人生を相談することが皆無に近い。決断に反対することもない。

今夜、もう1つ大きな変化があった。父のことがおにぃの口から出た。葬式で棺桶の蓋を閉めている時に涙を少し流したのが、彼の唯一の父の死に対する反応だった。あれから4年と8ヶ月。家族3人で初めて父の話が出た。ほんの少しだったけど。

日本に帰国してからの日々は、父の死との葛藤だった。葛藤は、わたしを己と向き合わせた。対峙すると、生まれてから重ねた齢の分だけ蓄積された、心や記憶や体のあくなき探求へ導かれた。何度も何度も嘔吐のような脱皮を繰り返した。32歳の時、先天的なものと後天的なもの、両方合わせて自分が持っているすべてを引き受けられたと感じた。受精してから今までという「過去」に降服した。過去をすべて見渡すと、過去は今となり、もう過去を捉えたり、癒したりすることで今を感じようとせずに済むようになった。生まれつきのことや、幼い頃にたまたま与えられた環境や、過去の出来事と、現在の私の因果関係から解放された。あるのは今と未来と、それを支えてくれる過去。

父の死という現象からの解放と共に、32年間の自我からの解放が起こり、これから新たな地(知)(血)へ赴きます。

ヴィパサナ瞑想の質も変化してきました。これまでは、無意識層の身体に潜む過去を解きほぐしていく手術と治癒のプロセスだったのが、最近は、自分の死をきちんと取り扱うための「意識化の技」を身につけるためにやっています。死はわたしたちの未来です。未来に向かってする準備の瞑想。

行く年来る年

昨日はお誕生日でした。満33歳になりました。33年間、五体満足、心身共に健やかに生きてこれたことに平伏します。

33年生きて初めて、生まれてから今までの辿ってきた道をすべてサーチライトで照らし、向き合い、消化し、治癒し、承認し、受け入れ、愛することができたなという実感を抱いています。生まれつきの肉体や体質が与えるいい、悪いもの。この家族に生まれた素晴らしいこと、チャレンジングなこと。幼い頃に刻まれた甘い記憶と厳しい体験。私の生まれ持ったカルマ。肉体レベル、心理レベル、魂レベル、すべてにおける私の33年間の蓄積。

今朝のメッタの瞑想では、頭になんとはなしに思い浮かんだ色んな生き物や、色んな人ー仲のいい人も会ったことがない人もーが幸せであるようにと愛の振動を送りました。他の幸せを想うと、自分が癒される気がします。錯覚かもしれませんが、ここに平安が生まれます。

最近、友人を亡くしたので、今日はこれまで亡くなった大切な人たちのことをたくさん思い出しました。自分の生を確かめることは、死を想起させます。

死とはどこか遠くにあるものではなく、ここ=私の中に、内包されています。死が道端に転がっていて、遭遇したら死ぬわけではありません。人間含め、生き物はいつ死ぬかわからない。死(の可能性/存在)は常に私たちに属しています。この認識は、恐怖ではなく謙虚さをもたらしてくれます。

また、「明日死ぬかもしれないから毎日を大切に生きよう」というような勤勉で勇気ある感覚は私にはありません。というより、先ほどの死への認識は「死ぬかもしれないから」という仮説の立て方から解き放ってくれます。死の客体化から抜け出ます。頭でする観念的な死への理解ではなく、本能的な「死との共存」です。

33歳の生活の指標を二つ決めました。一つは月経周期に合わせたスケジューリングをすること。排卵期、ホルモンの移り変わり、満月とのシンクロなど、肉体的に知覚できる明確なサインがあるので、心と体の求めるものに合った優しい暮らし方を意識的にプランニングしたらどうなるか試してみたいと思います。

もう一つは、living = dying。
死ぬ準備をしながら生きるとでも言うのでしょうか。ただこれは、老後を考えたり、遺言を書いたり、やり残したことをチェックリストに入れて一つ一つ達成するわけではありません。あるいは、病気になって死期が近付いた際に、事実を真正面から受け止めていけるような精神力を今から培うことでもありません。もっと実際的に死にいくことを取り扱う技を身につけたいと思っています。

現代日本やある一定の地域での常識では、死んでいく肉体と死んでいく意識は、脳や心臓の停止で判断されます。一方で、死んだ後も残る微細な意識レベルがあり、それは訓練によって養うことができると考える世界観、死生観もあるそうです。例えばチベット仏教僧は、輪廻のための次の肉体へ魂が無事渡るために、瞑想、夢、睡眠などのヨーガタントラを通して訓練します。

将来のビジョンは何かと聞かれても特にない私ですが、1番やりたいことは、人間という動物を探求し、可能性を発掘することです。人間を知るためには自分を実験台にするのが簡単です。

人間を人間たらしめているのは脳の発達からくる意識のスペクトラム。だから心理学にも関心を抱きました。この肉体が、この世界で行きつける最果てはどこか。山登りでもダイビングでもなく、私はそれを意識を乗りこなすことでやってみたいようです。

死は与えられるのだろうか?

宿の管理人さんの運転する車で眠りこけていて、起きたら崩れた校舎と、花に飾られた墓石が目の前にあった。なんとはなしに北上川沿いの道を河口に下っていってぶつかったのが大川小学校だった。60余名の子供の命が亡くなり、避難経路の確認や遺族からの訴訟が始まっているらしい。この立地ならば、もしすぐ隣の山に逃げていれば助かっていただろうに、という思いを拭い去ることはできないだろう。でも、生き物の生死に「もし」はない。死ぬのだ。否応なく。どのように死がもたらされるか、そこには私たちの力の入る余地はない。

先導した先生たちに、子供たちの死への責任はあるのか?ないのか?墜落した飛行機のパイロットに、乗客の死の責任はあるのか?ないのか?いじめを受けて自殺をした子をいじめていた人たちに、その子の死の責任はあるのか?ないのか?暴行殺人に及んだ犯罪者に、被害者の死の責任があるのか?ないのか?

闘病を必死にして死の準備をして死んでいく者と、突然交通事故で死ぬ者と、彼らの死には何か違いがあるだろうか。後者は本人が予期していず、無念だと感じながら死ぬかもしれない。それが問題なのだろうか。問題ではないのだろうか。前者の方が自分の死に責任をもっているのだろうか?いないのだろうか?

死は他者から与えられうるものなのか?
死は自ら選び取ることができるのか?
死の範囲とはなんだろうか?
あるいは、死の責任の範囲とはなんだろうか?

私の死は何によって与えられるのだろう。

2013年4月25日に。

ちょうど1ヶ月前の7月11日、天啓がくだり、2013年4月25日にベルリンへ渡ることを決めた。2008年の同日、私はアメリカを去り日本に戻ってきた。父親の命日の翌日のことだ。カリフォルニアの深夜に、日本の兄から父の訃報の電話を受け、錯乱状態の中、どうやって飛行機を取ったかはあまり覚えていない。成田に降り立った時、すでに「日本は3年」と決めていた。縁があってもう少し長く居ることになっているが、丸5年経過する来年の同じ日に、日本を離れることにした。

振り返れば、この4年間は父の死によって突き動かされてきた毎日だった。無慈悲と絶望を知り、あらゆる感情の極限を体験し、不信に苛まれ、己を責めた。3年が経過する頃、やっと崖から這い上がってきた感覚を得られるようになった。彼の死に様は28年生きた私を粉々にし、今の私の骨格を形成したと思う。

父はいくつか不思議なものを残していた。1つは死んだ時に持っていた財布の中身。生前、私と最後に会った日に行ったコーヒーショップのレシートが入っていた。物持ちがいいというか、何と言うか。もう1つは小説だ。病気になってから死ぬまでの1年半(実際に動けるようになってからなので最期の半年)で、10本ほどのフィクションと、6〜7本のエッセイを書き残している。エッセイは死後すぐに読んだが、小説にはなかなか手が付けられず、ずるずる時間は過ぎていった。今年に入って読む決心がつく出来事があったので、約4年振りにのろのろとフォルダを開くこととなった。

大学を卒業して間もなくアメリカに渡った私は、そのまま学生を続け、とうとう社会人になるかという間際に父は逝ったので、1人の人間としての彼と接する機会は一度としてないままだった。代わりに今、彼の小説を通して、彼という人間が何者かを学んでいる。

今月は、3月に他界したアメリカ時代の親友の新盆だ。出張がたまたま彼の実家のある奈良であったので、訪ねに行った。新盆特有の「臭い」が仏壇にはあって、2008年の夏を思い出した。彼が息を引き取る直前まで寝ていたベッドに寝泊まりした。部屋にはアメリカを急に去ることとなった私が彼にあげたスピーカーがあって驚いた。これまた物持ちのいい人だ。家には彼の気配がするとご両親が仰っていた。父が死んだ当時は、私が背負っていると言われたこともあったから、気配の話はなんとなくわかる。実際、翌朝、起きてベッドで座っていると、ドアをコンッとノックされた。「はい!」と返事をしたから、満足したんだと思う。

父も今ごろ、安曇野の家に戻ってくつろいでいるのだろうか。今年はお彼岸に会いに行く。その頃までには、すべての小説を読み終わっているかもしれない。

ツァラトゥストラはバルセロナでかく語りき

バルセロナでした買い物がタックスリファンドできるということでお店で書類を受け取って、空港で手続きするところで、税関のおやじがまじグランピーでムカつく奴でみっちりケンカした挙句、書類を破り捨ててきた。

そもそもタックスフリーいらない。手続き面倒くさいし、同じことやるはずなのに各国、各空港で手順が違い過ぎて紛らわしいし、こっちの国では税金払わなくていいけど、あっちの国では払ってね、みたいな国を境にした考え方がよくわからないー。私はタックスフリーの用紙を破り捨てたので、スペインに税金を払ったわけだけど、別にいいじゃんね。払うよ。誰か使ってください。

世の中ってお金がより多くある人に便利になってるよね。医療を考えると命も守りやすいし、クレジットカードが10万円限度と100万円限度と無制限は収入とか所属で決まって、限度額が低いほど、何か困ったことがあったら助けてもらえない。

カードが何かのエラー(海外行くとよくある)で急に使えなくなって、この場で今すぐ払わないと訴訟だと言われ、なんとか別の打開策を提案して問題解決したけど、クレジットカードはすっごい不便!って思った。

この頭くるやりとりをしながら、そもそもカード持てない人が世の中にはたくさんいるなぁと思い。それはお金があるかないかで決まるのだなーって。

クレジットカード持てない人と持てる人の間にある、命と徳の差はなんだ?

クレジットってそもそも信用だよね?信用じゃなくて疑いから成り立ってるじゃん。Doubt cardって名前変えた方がいいよ。

わたしには日本国民ですって意識は十分ある。それは私にとってすごく大事。でも、認識的文化的な部分だけあればいいのかもと思った。社会システムのための法や国籍については、もっとボーダレスにしていきたいな。

ドイツでは、self-employed ビザ保有者にペンションプランの税金を支払わせる法案が可決するかもしれないらしい。きっと老後はそこにいない外国人ビザ保有者が支払う多額の税金は、そんな何十年先の保険のためではなく、今の国家の金欠のために使われるわけで。

ロシア人の友達は、ドイツでツーリストビザを取るのさえありえないくらいのひどい対応と、システムと法の縛りに振り回されたって。でも彼女はアメリカでグリーンカード持ってて、ドイツでのビザ申請中にアメリカ国籍が取得できたから、その瞬間から、ドイツでの対応はガラリと変わった。どんな下らん奴でもアメリカ人ならウェルカム、ロシア人はファック。(これはドイツでの例ね。)

歴史的なものがあるからその条件反射もわからんでもないけどねー、とロシア人の友達w

国籍なんておかしなもんだよと、移民暮らしが長い仲間たちは言う。自分の国が崩壊したら、地球の人間界での存在権を確保するために国を移動して国籍を取る。

日本のために何かしたい気持ちは単純にあるけど、国のためなのかな?この島にあるものと、いる人と、培われてきたもののために何かしたいだけだよ。それがたまたまこの数千年は「国」って呼ばれてるけど。

各国で別々の国家や法や税金がないと機能しないという論点はもっともだ。いっしょくたにしたら、ゴチャゴチャになって、犯罪も増えるし、秩序なくなるよ。

でも実際、もはや機能してないよね??世の中見てみるとさ。

お金にまつわるしちめんどくさいことを連チャンで体験してすぐに、『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んだら、ツァラトゥストラはこう言ってた。

新しい価値の創造の自由を手に入れるために獅子となり、
新しい価値を生み出すために、無垢であり忘却であり遊戯である幼な子となる。

精神の支配者である竜はこう言う。
「汝なすべし」

精神の自由を求め、おのれの求める砂漠における支配者たらんとする獅子はこう返す。
「我は欲する」

私は砂漠を求める獅子であり、さらに新しいものを創り出す遊びを楽しむ幼な子なんだなー。

めっちゃ腑に落ちた。ニーチェ!

旅の終わりに思うこと

この痛みは、自己表現の欲求からくる痛み。

自分でありたいと願うことが、自分を痛ませている。

この痛みが消えたら、わたしはわたしじゃなくなるのか?

そんなことはない。

わたしをわたし為らしめているものを捨て去ったら、わたしはわたしでなくなるのか?

そんなことはない。

この痛みが消えても、わたしはわたしでありつづける。
今のわたしが大事にしてるものが失われることはない。

西洋心理学の言うアイデテンティティ(自己同一性)やエゴ(自我)を、人間精神の核として捉える見方の、さらに奥深くには、もっと違う世界が広がっていることを体感した。

わたしの存在を支えている核は、そこではない。