方角

人生をアートするとは、小説になるようなグラマラスな毎日を過ごすことではない。言われればすぐに普段の会話を即興パフォーマンスに変えることができる能力でもない。裏山に生えている草木がそのままで完璧な弧を描いているように、平原を駆け抜ける動物が持ちうるすべての力を漲らせているように、一瞬一瞬をあるがままに美しく、満ち足りた状態で、この星に命を受けた生き物の一つとしての本分をまっとうすることだ。社会というコンテクストにおいてミッションや役割を果たすのとは別のこと。

これまでアートする手段としてコミュニケーションを用いてきた。コミュニケーションのプロセスをデザインする。社会や組織から個々の人間関係まで含めた「人との関係性」において、頭に思い描く美しい線が描けるように、コミュニケーションの一筆一筆に意識してきた。何という文字を書くかではなく、筆の払いや墨の濃淡、文字の配置、呼吸との連動に心を配った。

最近はコミュニケーションはメインフォーカスではなくなってきている。死ぬまでずっと追求する題材だが、現時点での最重要モチーフではない。今は呼吸(身体)と意識が鍵だと思っている。コミュニケーションプロセスデザインの定義として、「生まれてから死ぬまで、呼吸のように止むこと無く続けるコミュニケーションは、呼吸と同様に私たちの生存に不可欠に違いない」と謳ってきたが、比喩ではなく実際に自分が働きかける対象が呼吸になった。いずれにせよ、人間が生きているあいだ絶え間なく取り組んでいるものに関心があるようだ。

また、コミュニケーションプロセスデザインではこう書いた。「コミュニケーションは他の生き物とだけではなく、自分自身とも行う。寝ている間でさえ夢を通じてコミュニケーションをする。」今、私は夢という領域へ意識を拡げ始めている。夢の中でもクリアな意識を保ち、起きている時の意識と夢の時の意識の地平を繋げる練習だ。呼吸と夢が数年後になってクローズアップされてきている。とても面白い一致だと思った。

寝ていようが起きていようが、考え事に没頭していようが本を読んでいようが誰かと話していようが、絶え間なく流れる意識の川。しかし私たちは多くの時間、意識の川から離れて岸に上がっている。岸どころか、丘の上までハイキングに行ったり、そこからハングライダーで空を飛んだりしている。自分のそのときそのときの状況、状態を明快に掴みながら1秒1秒進んでいくのは至難の業。

それでも、私は意識の地平の向こうが見たい。冒険家が8000メートルを超える霊峰の頂きや真っ黒い不気味な海底を目指すように。科学者が11次元の世界を仮定するように。そして、人生をアートするために、一瞬一瞬をあるがままに美しく、満ち足りた状態で、この星に命を受けた生き物の一つとしての本分をまっとうするために、重要なthe art (技)となると感じている。

起きている時間と寝ている時間の呼吸と意識の探求。しっかりとこれに従事できる生活環境をさらに整えていくことが2年目だ。この核さえあれば、それ以外は私を求めるところへ赴いて、提供できるものを提供していければいいなと思う。

 

Sounds of the Living

Strolling in a whirling wind.

Contemplating on a whirling mind

I know why I fell for this city.

Straining my ears to the surrounding.

I know how I fell for this city.

Dazzling sounds of the living.

I fell in love with the tunes he played.

Passion

I’m not paid for institutional or organizational purposes that make sense within the current socio-economic systems.

Money is bestowed to me for existential purposes by people who see the similar world in front of us.

Spent one year exploring a totally new field, I clearly know to what I want to devote my time and space. I will pour my heart into an endeavor to find out what human consciousness is and what capacity it has in relation to the body. I will elucidate what influences would be made on our society and relationships by expanding capacity of human mind. I practice widening the horizon of consciousness through staying awake in a dream and a day. I continue to breathe in and out with awareness. I let go off what’s happening that shifts immediately into the past and stay alerted to the presence. I cherish peace and silence within me without leaning to the others or objects. I’ve attained a peak of contentment and happiness as Naho Iguchi, whose life reaches 34 years.  From now on, I will even more vigorously dedicate my spirit to the process and shape my daily life around that. This is my passion.

I strive to reveal a new form, or “unform,” of art so as to make one’s life, one’s existence, one’s presence a piece of art, because I have a question to the world, can we stay alive, can we be a part of the complexity of the planet and universe, without claiming what our visions are for the future and what we intend to accomplish, without presenting how valuable ideas we have and what meaningful actions we take,  without proving what talents, power, and competencies we have, without justifying why we are who we are.

I hope to be simply alive. I am life. Fulfillment for dying. Everything ceases at the end.

How can I make a breathe, a glance, a stride of my feet, always connected to my artistic crystallization (I don’t use the word, expression because I’m no longer sure if “expressing thoughts and feelings” is the right word to me”) ? How can I be art? Crystallization is a chemical reaction in which a solution or gas becomes a solid crystal. A paradox is that I honestly want to keep a solution or gas as it is, while “art” asks me (and every artist)  to deliver something crystalized, visible, sensible, tangible, and meaningful.

I still have fear and anxiety for money (= the near future) and the way of sustaining my life. The fear doesn’t go away completely. I have no clue how my art-life in Berlin will go.  At the end, however, I don’t know if the fear stems from anxiety for running out of the financial source or not. Am I afraid of the shortage of money? What is it really? I’m very sad when I imagine a situation where my life in Berlin suddenly ends. I have love for the city. I’m building affection and attachment to my living in Berlin. I’m cultivating new soil to be rooted here. Vibration that the city has matches my life phase, what my body and heart want in order to spend each and every moment in happiness, tranquility, and awe for the world. But, this will end sooner or later. Everything ceases eventually. Materials are to be worn down. Occurrences are to begin and end. Am I afraid of losing my life here? No, I’m not but simply sad. It’s truly sad to lose something or someone you are fond of and intensely connected to. Regardless of my feelings, however, things happen. I would be ok when I lose my life here, as long as I stay alive, or I have life. Sadness will be appeased. Most importantly, I’m not losing it  now but perfectly in it!

I’m determined to pursue this journey, following my passion. The path will unfold by itself. The fear and anxiety for my future money and future sustainable life can get in a way and makes me blind and deaf for a few minutes, but they are at last passers-by. I will keep a trial and error of circulating energy with my beloved people and make my life art.

“Thank you for making your life a piece of art”

人生をアートするとはなにか。

人は私をアーティストだと言う。
だから私はアーティストを名乗ってみることにした。
すると(私のことを知らない)人は問うてくる。
「あなたのアートは何ですか?絵ですか?彫刻ですか?」
ストリートパフォーマンスですか?踊りですか?歌ですか?」
「どうやって発信するんですか?エキシビションはいつですか?」

文章を書くのが好き。
絵を描くのは好き。
歌を歌うのも好き。
音と自然に包まれて踊るのは至福。

でも、既存の「これがアートです」という出力方法に囚われず
私独自のアート表現を生み出したい。

楽器、絵の具、コンピューター、劇場といった
エクスターナルなメディアを介して表現をするのではなく、
コミュニケーション、身体、意識そのものを取り扱う。
つまり、自分自身がメディアである。

だから、コミュニケーションプロセスデザインという職業を生み出し、
組織の目的や機能構造ではなく、組織文化をベースに組織を作るという
違った組織デザイン方法を生み出し、
コミュニティ生成が思想の表現形態となり、
生き様に対して愛をもってお金を流す実験を始めた。

どうやって私の生そのもの、
日々の呼吸の一つ一つ、
そこから生まれる一つ一つの意思決定、
意思決定が導く出来事の数々が
アート表現となりうるのだろうか。

社会(圧倒的多数の他者)から「アーティスト」と
認められることを欲していない現時点での私は、
それを無視して自らの探求活動に埋没すればよいのかもしれない。
人からの認識や格付けに依らなくても、自らの内に平安なる静寂をを作れるようになり、
これまでのアイデンティティを静かに手放す練習をしている。
これから先にまた社会や地球に捧げるフェーズがくるのかもしれないけれど、
今は純粋に命を日々、社会貢献や自己実現や目的達成のためではなく、
他の動物や植物のように営むことに充足がある。
意味を見いださなくても、自己が崩壊せず健やかにいれるのだ。
平和ではないだろうか。

何をしていても呼吸に常に気づき、
現実と夢の意識を地続きにすることが
言うなれば私のアート表現の練習だ。
さっとデッサンしたり、ゴルフの素振りをしたり、
シュートの練習をしたり、ピアノを何時間も弾くのと一緒だ。
寝ている間もやっているので、文字通り24時間練習している。

私が追求したいアートは、人間という動物の本来性を知り、
意識と身体の繋がりを拡張させていくことだ。
これだけにフォーカスする生活を送るにはどうしたら
よいかを模索していくのが2年目である。
ワープの入り口に近づいている。

ベルリンに渡って1年未満でAFTER25という作品を発表できたのは喜びだ。
様々なジャンルの人を繋ぎ、直観が教えてくれたベルリンの魅力と
事実とのボタンを一つ一つ掛け合わせながらストーリーを作り、
インスピレーションを与えることができた。
過去にTEDxTokyoとTEDxTokyo yz、Art of Social Innovation, xyzActionなど
いくつものコミュニティ作りを通して学んできたことが結晶化できた。
日本という古巣とベルリンという新天地をまたいで作れたから、
一つ行き着いた気がしている。

1年目をどう(社会と接続するための)アート表現に落とし込むかも考えていきたい。
他者とのやり取りで感じているつっかかりは、
お金を愛で流すという「パフォーマンス」(アート用語での)をしているが、
テーマがメタシステム過ぎて端から分かりにくいことだ。
お金の巡り方そのものを変え、その変化が人の認知、行動、心理や関係性をも
変化させていくという現象を引き起こしているのだが、
ログ&発信をしていないこともあり、アート作品として捉えにくくなっている。
いずれにせよアウトプットをすぐに(2014年中)開始できる感覚はないが、
きっと複数アーティストと境界を越えた共同作品になるだろう。

生きることをアートにする。
今はそれを本能に従ってもくもくと実践し、時がくれば社会と接続し、
他者から受ける期待値を超える明確なアウトプット(アート表現+社会変革)を出せると思っている。

私たちが生きている間はわからないが、
将来、経済活動は芸術そのものになると思う。
ソーシャルグッドやトリプルボトムライン、ソーシャルエンタープライズという
ここ数年で生まれてきた経済の価値軸の向こう。
芸術そのものが経済活動になっていったら、
貧富の差や第3諸国の紛争問題が劇的に変化し得る。
それは、リソースが少なくても、農業や工業や知的財産を製造しなくても
芸術そのものが生きるための活動となるからだ。

自らをアート作品とする。
自らを問いかけとする。
私を見て、人が「これは一体なんだろう?どういうことなんだろう?」
と問い始める存在となること。

マージナルであること。
曖昧であること。
手ではすくえないこと。
でも真理と確かさがあること。

“Thank you for making your life a piece of art.”
パリジャンがかけてくれた言葉が耳の奥で鳴る。

La Mosquée Bleue

Oh dear Istanbul,

my admiration and affection for you brought me to one painting. J’ai trouvé La Mosquée Bleue d’Istanbul dans Le Musée de Louvre. How could I not miss it? The perfect shape of blue spires that penetrate the sky and ocean. You were placed at a very quiet corner of the top floor in the museum. I came across with you while I was breathing deeply.

Deep in. Deep out.

 

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La Ville-Lumière

Wandering about.

A gentle wind led me to la Cathédrale Notre-Dame de Paris. The crescent was veiled with blue clouds. I breezed into its door to greet Jesus. By chance, an evening Mass by the Cardinal Bishop of the city was being conducted. Ce s’appelle Grande veillée pour la vie. “Great vigil for life.”

The magnificent architecture that inspires nothing but awe in us reminded me of the Blue Mosque in Istanbul. Chanting of Quran and prayer of choir inevitably had the same resonance. A tonal ladder to the heaven.

 

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自己認知/自己同一性と言語表現の乖離

アメリカ生活1年目の年、自己を表現するために口から発せられている言葉と、自己認知が大きく乖離し、自分が自分でなくなるという不調和を経験、アイデンティティクライシスが起こった。

ベルリンに来てドイツ語を集中的に習得し始めたことで、英語、日本語もおぼつかなくなり始めた。処理スピードが目に見えて落ちている。もちろんドイツ語では表現できないわけだから(自己表現どころか、他者が言ってることがまずわからない)、どの言語でも言葉がうまく出て来ない、そもそも考えが浮かばず空白になる状態に頻繁に陥る。思考は言語を以てするものなので、「考え」が浮かぶ手前のところでスタックしているわけだ。ふたたび、自己認知と言語による自己表現の乖離が置き始めている。言語表現と自己の間に溝があるということは、要するに、自分を言語を使っては思うように出せないわけで、結果、他者による私の認知にも影響してくる。そして、「ほんとはこうじゃないのに。他者は私をこう捉えているんだろうな。」という思いが生まれてくる。実際、それはある程度正しいだろう。他者は私を、日本にいた時の私のようには認識しない。なぜなら私自身が違う行動を表出させているから。もともと日本語でも、人の話を聞いている方が得意という性質と、成長フェーズで「蛹」にいて、他者に伝えたいほどの思考や意見が減少しているのもあり、私の沈黙度は拍車がかかっている。そうすると、「話さないけどなんとなく漂ってくる雰囲気」「存在感」「空気感」とやらで判断されていることになる。だって、ただ座ってるだけのことが多いから。

日常生活では時として不満足に繋がるものの、今は(わたしの)命と存在にぴったりと一致しているので、乖離プロセスにある私こそが「今の私」であるという、瞬間瞬間移り行くアイデンティティを生み出すことができている。アイデンティティという言葉があってるかわからない。「移り行く」という形容詞と「アイデンティティ」の定義は相反しそうだから。でも、移り行くアイデンティティだ。これはディスインテグレーションでもある。

身体とアイデンティティの連動

アイデンティティとは、自分の持っている思考であり感情であり行動であり記憶であり社会関係であり自己定義である。何かを考える時、感じてる時、思い出す時、他者とコミュニケーションしてる時、自分を見つめる時、私たちの体は動いており、どこかが必ず反応している。そして、最も頻繁に反応する体の部位が誰にでもある。きっと1人1人違うが、生きている限り体は働いているので、生きている間に起こっているすべての事象に対して、身体のレスポンスがある。私たちの多くは、それを知覚できていない、あるいは意識できていないだけだ。

何を言いたいかと言うと、アイデンティティと連動している体の部位がある。身体というレイヤーにあるアイデンティティを知覚できるようになると、まるでブラックホールのようなものだということがわかる。ぎゅんぎゅん強力な吸引力で、近くにいくと重力は効かずに吸い込まれて忘却する。全身にその波動を送っている。忘却されるのは、刻々と移る瞬間瞬間をとらえる光明な意識だ。

身体内のアイデンティティ(と連動している部位)を解すと、アイデンティティのディスインテグレーション(分解/崩壊)が起こる。こうしてアイデンティティからの自立ができるようになってくる。

chrysalis

Is a caterpillar aware of when it ends its chrysalis and metamorphoses into a butterfly? Does it recognize “I’m not what I’m used to be but a butterfly”?