If it is as it is, then.

Sayonara. Good bye. Auf Wiedersehen.

Initially I chose not to say “sayonara,” which means “so long good bye.” Instead, I rephrased to “Auf Wiedersehen.” It’s tenderer because it explicitly premises the next chance. At least it contains your wish to have another one. Or your world stays to the extend where the possibility still exists (regardless of “the fact”.) Au revoir and 再見 as well. Goodbye and adiós connote religious values.

Sayonara comes from a completely different angle compared to those above. Literally, sayonara originally/formally writes “sayou nara,” which means “if it is as it is, then.” You don’t sentimentally wish for another chance, but accept as is and depart.

At the end, sayonara was the right word.

Sensuality -導入-

年齢、民族、言葉、セクシャルオリエンテーション、、、様々な境界を越えて魅力的と思われる人の笑顔や仕草は 芳しく、何気ない一言にハッとさせら、つい聞き惚れたり見惚れてしまいます。そこには色気が漂います。その雰囲気は一体どこから来るのでしょうか。

魅力の構成要素を挙げれば切りがありませんが、「自分の欲望を熟知し、表現できる人」から魅力が溢れ出しているように感じます。これは性的な意味に限ったことではなく、仕事においては追求すべきミッションを持っていることであり、夢に向かって進む輝く無謀さであり、 送りたい暮らし方を得るために政治へ意見を表明できることです。 家族においてはどんな夫婦関係、親子関係 を結びたいかを思い描き、行動に移していることです。恋人にベッドの上でどんな風に愛撫して欲しいか色っぽく伝えられることでもあります。でも、欲しいものをスト レートに表現することは容易ではありません。エゴを剥き出しにすれば周りを傷つけ、 自分が後悔します。嫌われるのが不安で本心を出すのを躊躇すれば、欲求は陰に潜んでしまいます。

他者へ丁寧に意識を傾けながら、自分の欲求に忠実でいるためには、理屈や感情に引きずられた「あれが欲しい」「これが必要」ではなく、生をまっとうするために本当に必要なものを捉える感覚(senses)を育てなくてはなりません。周りに対する思慮や、物事を分別する良心(sensibility)を磨かないといけません。満たされない気持ちや虚栄心を埋めるためのwantsではなく、社会が決めたwantsでもなく、わたしとして存在するためのピュアで野性なwantsを感じる力。生れてから現在までの時間の積み重ねによって できた「今のわたし」を素直に表現すること。痛みや恥じらいも含めて偽りがないこと。これを私は ”Sensuality” と呼んでいます。

Sensualityを研ぎすます=この体、この脳みそ、この心、この魂をまるっと引き受けるために、「わたしは何者か」を探求し、複雑に絡み合った糸を解いていきま す。自分の嫌いな部分や隠したい部分にぶつかります。見て見ぬ振りをするのではなく、その時に浮かび上がる情景や、沸き起こる感覚・感情と向き合い、享受し尽くします。すると不思議なくらい、それまでは言葉にすることは愚か、認めることすらできなかった弱さについて、さらりと話せてしまったりするんです。人間が持つあらゆる感覚を鋭敏にして、真に表現すべき欲求を抽出していくプロセスは、一枚一枚体を覆っていたベールを脱いでまっさらになっていくことです。裸に近づけば 近づくほど、わたしが露になり、sensualになります。そしてやがて、わたしというアイデンティティはなくなるのです。

lucid

わかっているのは死だけ。

それを噛み締めるとき、生は夢のようになる。

鏡池に映る山景色のように。

夢が明晰になると、現実も明晰になり

境界線が朧げになっていく。

雨の降る前の月夜のように。

it is only certain, death awaits me.

when I chew this certainty,

the texture of life turns into a dream.

like mountains reflected on a mirror-like pond.

the more lucid a dream gets, the more lucid the reality gets.

the boundary becomes blur.

like a misty moon at night before a rain at dawn.

 

duzen oder siezen?

日本語って根本が上下のパワーダイナミクスを作るbeggingな性質で文書作るのが大変。。。英語だとわっしょい一緒にやろうぜ的な煽り文句が書けるし、ドイツ語だとお互いの立場をフラットに明確に定義できる。

「スタートアップ」「ジョイントベンチャー」「バッカーコミュニティ」のマインドに、言語的についていけないというそもそもなOuch。言語がついていけないってのは、そりゃ〜ディープな問題です。伝えたい主張/スタンスが翻訳した時に喪失するんだから。

ドイツ語にも敬語的なものがあります。フランス語にもあります。「あなた、君」を指す Sie/du (D), Vous/tu (F) を使い分けます。主格名詞によって動詞は変化するから、敬語と親しい間柄の言葉で動詞の形が変わります。

どんな状況でどんな相手にSieを使うべきか、duでいいのかの判断力はコミュニケーション上、重要です。でも「duzen でいこう。」と合意すればswitchは割と簡単。なぜなら主語をduに変えれば動詞は自動的にduの活用に倣うから。

日本語の敬語はそうはいきません。「じゃ、タメ口で!」と言ったところで、呼称を苗字から名前に変えるのか、「さん」から「ちゃん」やあだ名にするのか、「です・ます」を取るのか、尊敬語や謙譲語をやめて丁寧語にするのか、話者同士の相対関係で決まる上に、心理戦も働く文法構造故にパターンは無限大。そう、心理戦がシマンテック(意味論)だけではなくグラマー(文法)に何層にも渡ってはびこっている。どの言語もそうだろうけど、日本語の重厚感は飛び抜けていると思う。

TEDxTokyo yzコミュニティでは、ある組織文化を醸成するために、年齢、社会的立場、知り合った年月の長さに関わらずファーストネームで呼び合うというグラウンドルールを創設当時からやっています。これは狙いが当たったというか予想以上の効果で、生み出したかった文化を育くむのに大きな役割を果たしています。単純に言うと、日本語文化圏にはないプロトコルを日本語コミュニケーション内に導入しました。

言語が組織文化、グループダイナミクスに与える影響は絶大なのだ。大概、私たちは言語でコミュニケーションするからね。だから「こういうワークショップメソッドがある」「こういうブレストテクニックがある」「こういう状況を作るとオープン&フラットになる」という方法論だけでなく、より根源的なマインド&行動を支配しているメディア、つまり言語=日本語の使い方にクローズアップしてみると興味深いし、やり方によっては非常に簡単かつ効果マックスな結果が得られます。

awakened

This morning, I was awakened from a decade-long dream. A clear realization struck me, that he will never ever come back. As a matter of fact, it’s a simple obvious fact which I knew from the beginning. Well, I should say, I knew it as a piece of knowledge. But my deep inside didn’t realize what it really meant. Until today’s awakening, I’ve lived in a long long hazy misty dream where I was totally blind and didn’t grip the reality of an eternal separation. I knew. But I didn’t.

Needless to say, I didn’t believe a freaky thing that the deceased would revive. I understood that he was dead and that was it. Nonetheless, my life since then has been shaped around his death, or existence. I’ve devoted all my time and energy to accept, fight back, reflect on, heal, mad at, get devastated, and get out of his dying and passing. I disparately longed for and missed him in sinful regret, self-hatred, and despair. Without thinking of and being aware of impossibility of our reunion in this world, I exhausted what I had on the relationship with him. The magnitude of my missing him actually gave me the tremendous amount of energy to do things. I bestowed all of it on making my life and proceeding.

Upon the realization, I was astonished with the fact that I had been so lost in my world in relation to him. I gazed into space in my room as if I had been connected to emptiness.The experience of awakening from this immense dream was exactly the same as the every morning waking up from a dream or sleep and as the waking in a lucid dream while sleeping. “Oh! I was dreaming, and I am awake now.”  I never see him again.

No longer do I have to be driven to fill in the gap, which I would keep failing for good because it’s simply impossible. I miss you. But I can’t see you. I can’t change the past. I’m not meant to desire for what I can’t have. My life force isn’t for something that I can never fulfill. From now on, I’m able to beacon my energy, apart from the identity with him.

Be open to

To be open to any possibility is one thing. To prepare for multiple options for you to choose and keep the future open, like “I could do this and that!” “This might be also good for me. Let’s keep it for now!,” is another thing.

Our imagination is at the end limited to our conception and paradigm, or our language. Possibilities that we ourselves create don’t exceed who we are. An extraordinarily possibility comes from middle of nowhere, which we never even thought of, unexpectedly and absurdly. Such a possibility stuns and astonishes us. An unintended coincidence and an abrupt invitation open up a new path of possibility.

To be open to any possibility is to develop flexibility and detachment within us that enable us to say yes to a surprising invitation sent from where we don’t belong, even if we skeptically feel that we are about to throwing away what we have established, believed, and relied on.

We don’t need to keep multiple choices and disguise ourselves as if we had so many possibilities ahead of us. We should cultivate tenderness and resilience inside us that let us jump in an altered dimensioned hole suddenly appearing along the way.

常に様々な可能性にオープンである状態とは、選択肢を自らたくさん作って増やして、これもできるかもしれない、あれもいいかもしれないと複数の道を残しておくこととは限らない(これが有効な条件下もある)。

人間の想像力なんてたかが知れてる。自分で作る可能性には限度がある。思いがけない成り行き(セレンディピティとかフローとか言ったりもするようなあれ)や唐突と思われるインビテーションから新たなる可能性の道は開けていく。

あらゆる可能性にオープンにいることとは、自分の予想、プラン、ビジョンが囲う枠の外からやってくるインビテーションに、必要とあれば、これまで築き、信じ、拠り所にしていたことを捨てるように感じるとしても、Yesと答えて受け入れてみるフレキシビリティとディタッチメントではないだろうか。

常に幾つもの道を作っておくのではなく、目の前の一つの道を突き進んでいってポッと表れる異次元ホールに飛び込める柔らかさ。

filling up

人間の普遍性とは、ゴミを出す生き物だということ。
デジタル世界でもそのうち夢の島ができる。クラウドがその始まり。
公害となる化学物質の垂れ流し、過剰なパッケージング、破棄される残飯と同じことが、デジタルデータでも起こっていると思う。
情報の過度な生産と廃棄。
そのうち自分たちが生み出したデジタルデータのゴミの山に押し潰される。

命を全うするために必要なことはなんだろう?不必要なことはなんだろう?無駄や無意味から美や神秘は生まれるし、無駄や無意味なものこそに面白くて夢中になって芸術が栄えるから、余剰を闇雲に取り除くことはないと思う。でも、その範囲を越えた過剰さにすでに突入しているだろう。

人間はスペースがあったら埋め尽くす。頭の中は思考で埋め尽くされ、地上は物とゴミで埋め尽くされ、海底に乗り出し、宇宙に乗り出し、サイバースペースを作り出した。次なる空間はどこだろう?

The universal predisposition of human being: we are the creature that wastes and dumps stuff. Soon the “Dream Island” full of trash will appear in the digital world. Cloud is its bud.

Discharge of harmful chemicals, excessive packaging, exceeded food to be discarded. The same things are happening to digital data. Overproduction and junk of information. A pile of crappy digital data will probably crush us down, won’t it?

What is essential to fulfill our life? What isn’t? Beaty and holiness are born out of meaninglessness and wastefulness. They enrich art. Excess and surplus are not by nature vicious. But we have crossed the limit materially. Digitally alike.

We humans will always fill in the space, if any. Thoughts fill up our mind. Stuff and trash bury our land. We sail out to the sea and space, then create the cyber space. What is the next space?

平和なイヤなやつ

体をミクロレベルまで探りに探った。
脳みそ、経絡、筋繊維、骨格、毛細血管、チャクラにチャネル。
生まれた時から今までの過去をしらみつぶしに遡った。
精神分析的にも、認知心理学的にも、システム論的にも、
プロセスワーク的にも、トランスパーソナル的にも、ゲシュタルト(身体)的にも
わたしという存在と歴史の横軸と縦軸と斜め軸を、詳細に丁寧に明らかにしてきた。
心と体と頭と魂が一致し、過去と未来が現在に集約した。至高の幸福を体感した。

それからしばらく、至高の空間に滞在しながらも葛藤時期に入った。
停滞と思えた。5歩進んでは3歩下がった。
さまよいつつも体の感覚は抜群に研ぎすまされ、意識は明快だった。
鋭過ぎるほどだった。

今日、頭の中に降って来たのは
もう自分の体が感じることや、心の声が言うことはいいやと思った。
とりあえずはやり尽くした。1つの峠は越えた。
次は私以外のものが感じていることを感じよう!
感覚器を拡張・内包したい!
枯れ木が感じていること。薄い靄のかかった空気が感じていること。
空が感じていること。周りで息づき、蠢いている無数の有機物(人間含む)。
私の目や耳や鼻が捉え、脳が捉えている世界。
この世界が感じているものをダイレクトに共時性を持って感じる術を持とう。
透明になっていく感覚。
自分の体のキャンパスに、背後の風景が透けて見えるように描かれて、
やがてはレイヤーが重なって1つにマージする。

(閃いたばかりの意思なので、まだうまく言葉にできない。)

あと、平和なイヤなやつになってこう。
戻る、かな。

越境と内包

人生をアートする。

長い歴史の中で形成された社会の仕組みと文化の表象。
目には見えないけれど確固として存在する無数の境界線。
越えやすいものもあれば、越えにくいものもある。

国境。民族性。国籍。言語。
法律。政治。規約。社会規範。
水平線。大気圏。標高。
家族。友人知人。会社。学校。知らない人たち。

越境する。

ある3つの事に対して私は特に意図的に関わってきた。
3つとは、金、性、死。
人間生活に深く楔を打たれ、避けることはできない事象。
にもかかわらず、多くの社会でベールに覆われ、語られることが少ない。
日本に限らず、お金、性、死にまつわることは、身内(personal)か外(public)かの境界線がはっきりと敷かれ、
外とは共有されることはあまりない。恥、罪、忌み、恐れの念がねっとりとまとわりつく。

お金、性、死の輪郭線を引き直すことで自己の領域を広げ、
「他」や「外」との新しい関係を見出していく。
お金/性/死と自分の関係。
お金/性/死を通じた私と家族の関係。
お金/性/死を通じた私と友人知人の関係。

越境し、内包する。

お金がないと不安だから不安を減らすために増やす、
お金が増えていくと気持ちいいから増やす、
ではないお金の巡り方。

性について表現し、欲求を満たそうとするのは恥であり卑しいから
外に見せるのは怖いけれど欲求は現に存在する。
だから抑圧するか隠すか攻撃する、あるいは逆に肥大化させて貪る、溺れる、盲目となる、
ではない性の表現。

死が日常に転がっているのは辛く哀しく怖ろしく忌み嫌うべきものだから
直接取り扱わなくてよいように生活スタイルや意識から切り離す、
扱い方がわからないから死を濫用する、
ではない死との向き合い方。

嫌だという心理(aversion)と快感(pleasure)に執着することによって回転するカルマの歯車。

歯車を外し、流れを生もう。
私を通過していく沢山のものものから作られるエネルギー。
それがお金であり、性の顕現であり、死への道のり。

不安とは

不安という感情に殊更向き合っている。拭い去ることはできずにいる。

私たちが住む社会は不安を極力取り除こうとしてできている。老い、心身の不調、死への不安を減らすために医療の進化は止まることがない。死を非日常化するために、死は制度となり、管理される。保険や社会保障はどんどん膨れ上がり、不安を煽ることでビジネスが成立しているようにも映る。食べ物が枯渇しないように天災への対策を徹底化、生活品の供給はとめどなく、暗闇への不安から電気を煌煌とつける。暮らしに「困ること」がないようにデザインされ発展してきた。困ると不安になる。命が脅かされる第一歩だからだ。

お金と愛と信頼の関係性を紐解く試みを始めた。見返りのない金銭の循環はありうるのか?家族の枠を越えて、愛と信頼がお金の動機となりうるのか?お金を想いを運ぶ純粋なるカレンシーに還元できるのか?そんな問いかけを実行に移し、友人からの愛情によって支えられる暮らしに入った。そこでの新たな問いかけは、人間の本能とは何かということ。己の思考、感情を綿密に辿る日々。すると、根源的とも言える不安に遭遇した。不安の実態を突き詰めると、茫漠たる観念ではなく神経をピリピリと刺激する物理現象だった。不安と名付けられた心理的作用の源である固い痼りは、胸と背中の奥に棲んでいる。まるで別の生き物のように。

不安が体に痛みを刻み、振動となって芯から響いてくる。これまで痛みを摩滅しようとしてきたが、消えることのない生物のデフォルトなのではと思うようになってきた。不安を受け入れるのは容易ではない。不安を減らそうと躍起になる方が簡単だ。でも、消すのには限界があることがわかってきた。少なくとも今の自分には。完全に痛みから解き放たれた体などないのだろう。不安を消さんとする意思や行為は動物の本能だろうが、不安がなくなった状態は動物ではないのではないか?一つの形は仏陀だろう。特に目指しているわけではないが。私は人間の持つ動物らしさ、本来性を体現したいだけ。

社会や文化を成り立たせている骨組みのちょっとした歪みに居場所を見つける。そんな気分の暮らし方はすこぶる快適だが、骨組みが守ってくれている不安要素にダイレクトに曝される。動物らしさを追求した結果、快楽ではなく根源的不安が明るみになったのは興味深い。社会システムに盲目に嵌め込まれていても不安は絶えないが、自由になってみると不安はなくなるどころか先鋭化した。不安の因果が明確になってきた。何かを失うことへの不安だ。この不安は最後、死への恐怖となる。

いずれにせよ、どこでどのように生きようと不安は無くならないということだ。ウィルスのように、テクノロジーや社会システムの進化に合わせて人間の不安は進化していく。一つが満たされ「より健康な、長生きできる暮らし」が実現したら、次の不安が姿を見せる。ならば、これ以上不安を複雑化するのではなく、立ち戻って根源的な不安に向き合うのはどうだろう?死への恐怖に。毎日、毎日、生きるか死ぬか。ジャングルに行かなくてもできる。

幸福とは不安が無い状態ではない。必ずしも病気や衰えを(恐れて)未然に防ぐことが幸せをもたらすわけではない。無惨に苦しみながら死ぬことになったとしても、至福はもたらされうる。生死を価値や意義で判断しない地点に立てた時に至福が表れる気がする。
不安を扱いながら思うのは、体と心を研ぎすませ過ぎても座礁するということだ。岩は無くなるまでに果てしない時間がかかるので、真っ向から溶解せんと対峙するより、波のように岩に押し寄せては引く程度がいい。