不安とは

不安という感情に殊更向き合っている。拭い去ることはできずにいる。

私たちが住む社会は不安を極力取り除こうとしてできている。老い、心身の不調、死への不安を減らすために医療の進化は止まることがない。死を非日常化するために、死は制度となり、管理される。保険や社会保障はどんどん膨れ上がり、不安を煽ることでビジネスが成立しているようにも映る。食べ物が枯渇しないように天災への対策を徹底化、生活品の供給はとめどなく、暗闇への不安から電気を煌煌とつける。暮らしに「困ること」がないようにデザインされ発展してきた。困ると不安になる。命が脅かされる第一歩だからだ。

お金と愛と信頼の関係性を紐解く試みを始めた。見返りのない金銭の循環はありうるのか?家族の枠を越えて、愛と信頼がお金の動機となりうるのか?お金を想いを運ぶ純粋なるカレンシーに還元できるのか?そんな問いかけを実行に移し、友人からの愛情によって支えられる暮らしに入った。そこでの新たな問いかけは、人間の本能とは何かということ。己の思考、感情を綿密に辿る日々。すると、根源的とも言える不安に遭遇した。不安の実態を突き詰めると、茫漠たる観念ではなく神経をピリピリと刺激する物理現象だった。不安と名付けられた心理的作用の源である固い痼りは、胸と背中の奥に棲んでいる。まるで別の生き物のように。

不安が体に痛みを刻み、振動となって芯から響いてくる。これまで痛みを摩滅しようとしてきたが、消えることのない生物のデフォルトなのではと思うようになってきた。不安を受け入れるのは容易ではない。不安を減らそうと躍起になる方が簡単だ。でも、消すのには限界があることがわかってきた。少なくとも今の自分には。完全に痛みから解き放たれた体などないのだろう。不安を消さんとする意思や行為は動物の本能だろうが、不安がなくなった状態は動物ではないのではないか?一つの形は仏陀だろう。特に目指しているわけではないが。私は人間の持つ動物らしさ、本来性を体現したいだけ。

社会や文化を成り立たせている骨組みのちょっとした歪みに居場所を見つける。そんな気分の暮らし方はすこぶる快適だが、骨組みが守ってくれている不安要素にダイレクトに曝される。動物らしさを追求した結果、快楽ではなく根源的不安が明るみになったのは興味深い。社会システムに盲目に嵌め込まれていても不安は絶えないが、自由になってみると不安はなくなるどころか先鋭化した。不安の因果が明確になってきた。何かを失うことへの不安だ。この不安は最後、死への恐怖となる。

いずれにせよ、どこでどのように生きようと不安は無くならないということだ。ウィルスのように、テクノロジーや社会システムの進化に合わせて人間の不安は進化していく。一つが満たされ「より健康な、長生きできる暮らし」が実現したら、次の不安が姿を見せる。ならば、これ以上不安を複雑化するのではなく、立ち戻って根源的な不安に向き合うのはどうだろう?死への恐怖に。毎日、毎日、生きるか死ぬか。ジャングルに行かなくてもできる。

幸福とは不安が無い状態ではない。必ずしも病気や衰えを(恐れて)未然に防ぐことが幸せをもたらすわけではない。無惨に苦しみながら死ぬことになったとしても、至福はもたらされうる。生死を価値や意義で判断しない地点に立てた時に至福が表れる気がする。
不安を扱いながら思うのは、体と心を研ぎすませ過ぎても座礁するということだ。岩は無くなるまでに果てしない時間がかかるので、真っ向から溶解せんと対峙するより、波のように岩に押し寄せては引く程度がいい。

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s