人生のDJ、繋ぎは完璧

ハードコア・ジバムクティヨガでめちゃめちゃ汗をかいた締めに、いま1番自分に必要な「逆さま」ヘッドスタンドをして、身体中を流れるエネルギーを奥から感じて至福を味わい、終わったら大好きなワンコが受付にあるカフェのソファーで寝ていたからなでなでして、お腹が減ったから美味しいバナナケーキを買って、受け取ったら焼きたてで暖かくて、嬉しくなってモグモグ食べながら通りを歩いて駅に向かったら、帰りの方角に光り輝くお月様がいて、歩きながらじょじょに強さが増す月光を浴びながら交差点で信号を待ち、青に変わって横断歩道を渡り切った時にバナナケーキを食べ終わったら、すぐ左側にゴミ箱があって空になった袋を捨てて、そのままリズミカルに歩みを止めずに歩いて、地下鉄の階段を降りようとしたら、地下鉄の入口がある建物は、バーニングマンの時にギフトとしてたくさん買って行ったベルリンの街中を写したフォトカードに載っている、ずっと気になっていた建物だった。建物にはこう書いてある。

“Dieses Haus stand früher in einem anderen Land.”

「かつてこの家は別の国に建っていた。」

ここにあったのか!!
この文の含むメッセージがあまりにバーニングマンにフィットしたから、一番枚数をたくさん買ったポストカードだった。

お家に帰る時、いつもこの建物に飲み込まれていってたのか〜〜。。。

人生のDJ、繋ぎは完璧。

キックのガッツリきいた重低音ミニマル四つ打ちから、トライバルなテックハウスに繋いで、途中チベタンモンクのチャンティングのサンプリングなんて入れて、ちょっとBPM落としてアンビエントに持っていったら、最後はアップリフティングで上音綺麗なプログレッシブ。

みたいな感じ。

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Luxuriate in Love

(JPN original follows English.)

 

Communication Process Designer is a piece of art that I worked on in Japan. It’s a custom-made profession for me. Communication Process Design (CPD) is philosophy and a practice-based theory. Its premise is that all the phenomena pertaining to human life are accumulation of communication. In other words, any type of human activities result from communication. Communication pervades, regardless of industries, sectors, fields, specialties, professions, religious belief, regions, nationalities, ages, genders, colors, and so forth, whatever is vertically secluded from each other in the systems in our modern society. We perpetually communicate at every second, as we breathe in and breathe out ceaselessly. If we think and act more carefully upon how we carry out moment-to-moment interaction, that will yield a huge difference in the world which we are stuck in. Mindfully designing  process of communication enables us to change in our thoughts, behaviors, attitudes, relationships with others, and world views. It lets us disintegrate old forms within our internal and external systems and recombining them as a new synthesis.

What is a purpose for communication? My answer is, “to weave and shape love and trust with the sentient beings. Why do we endlessly communicate with others as well as oneself on our birth until death? What for? Because it’s essential for human being to survive. Communication is vital and fatal. Given the fact that it is parents (either genetically or socially) who we first communicate with, communication is indispensable to thrive. In order to exist, we need someone who wishes for our existence, those who make us alive. This is love. Until the last day, we strive to develop love towards people, things, and incidents. Family, friends, colleagues, the older, the younger, clients, strangers, celebrities on media, cars, clothes, ideas, concepts, faith, blue sky, sunshine, animals, plants, planets,,,, Anything can be an object for us to bond with through love and trust.

Based on the CPD Philosophy, I experimented in organization and community. Now, a focal point has shifted into life in itself.  To elucidate human life and psychology, money is used as a tool of expression. How can we “exchange” (not in a conventional equal exchange) money with love and trust? How can we utilize money as a container to convey love and trust to someone who you care for. Instead of getting it stagnant and seized, let money flow in and flow out.  Circle inward, circle outward. Circle downward and circle upward. Spiral…

Everyday life is a piece of art. Then, what do I create and produce out of day-to-day life? That is loving relationships that I nurture by interweaving every thread of communication. Fruits of love are ripe and laden. I’m harvesting them. While receiving their juicy sweetness, I water new ones.

My art is our life, through spinning a wheel of communication, to sing for love, taste flavor of love, and luxuriate in love.

 

日本ではコミュニケーションプロセスデザイナーという職業を作ってやってきた。コミュニケーションプロセスデザインとは私なりの哲学であり実践理論体系。その前提(premise)というか仮説(hypothesis)は、「人間の社会的活動の最小単位はコミュニケーションであり、生きるすべての営みをコミュニケーションという形に集約(reduced to)して捉えることができる、というもの。さまざまな産業、分野、専門に分断されている現代社会の「縦」な仕組みに、コミュニケーションという、私たちが呼吸と同じくらい常にしている行為をもってすれば、「横」ではなく、「斜め」から切り込めると思った。

コミュニケーションの目的とは何かという問いへの私なりの回答は、愛と信頼を結ぶこと。なぜ生まれ落ちてから死ぬ間際(死の定義の議論は置いておくとして)まで人間はコミュニケーションを重ね続けるのか?それは人間とう動物が生きるために必要不可欠なものだから。vitalかつfatalであるコミュニケーション。最初にコミュニケーションを取るのが親(代わり)とすれば、それは生き延びるため。成長するため。生き延びるために必要なのは、生かそうとしてくれる存在を作ること。これが愛だ。ここから、死ぬまで私たちは、ヒト、コト、モノに対して愛を育もうとし続ける。家族、友達、同僚、上司、後輩、クライアント、知らない遠い国の人たち、メディアに出てくる人、アイディア、思想、宗教、空の景色、動物、植物、、、あらゆるものが愛と信頼を結ぶ対象。

この哲学をベースに組織とコミュニティの実験をしてきた。そして今は、ベルリンで人生の実験をしている。お金と愛を交換させ、内から外へ、外から内へ巡らせること。捉え、淀ませるのではなく、流す。自分の人生そのものがアートピースだと宣って活動している(俺様ww)。では、私が日々の暮らしでつくりだしているものはなんだろうか?それはコミュニケーションを積み重ねる(プロセス)ことによって育まれる他者との愛情関係。愛がたわわに実って、今は最初の収穫の時。収穫しながらも、新たに育っているものの世話をする。

私の人生というアートピースは、コミュニケーションを紡ぐことで愛を花咲かせ、実らせていくことだ。

Dream Yoga. Dream Berlin.

すべては現、すべては夢。

All is reality. All is dream.

A book I’m reading is about Tibetan Buddhism and its Dream Yoga Tantra. Tibetan Buddhism practitioners train themselves in order to liberate from their karma, or at least to travel the bardo (the intermediate state between death and new birth of reincarnation) safe and sound so that they get a closer-to-enlightened existence in the next life.

Their “training gym” is dreams during sleep. To precisely put, they first practice to control their mind while they are awake at the gross conscious level, such as meditation, breathing, yoga and mantra. Once they become capable of harnessing their mind at a certain degree while awake, they begin practicing to access their dreams while sleeping and learn a skill to maintain consciousness in it. In other words, a lucid dream as you know it.

The lucid dream is not easy to get in the beginning. Therefore, Dream Yoga teaches to establish the dream state while they are awake during day time in order to keep the same state in the dreams.

How? What they do is simply to perceive and capture everything as “dream”; psychological, mental, or materialistic phenomena;  tangible objects; and own physical body. Everything that happens in either the waking or dream state is dream. There is no difference in the waking reality and dream. Both are reality. And both are dream.

To me, living in Berlin is like having a dream in sleep. Everything is new, strange, unfamiliar, and alien. I sometimes fall into such a bizarre psychedelic state that I can’t fully grasp the fact that I walk down on a street in Berlin on my way home. It’s unrealistic! surreal! I was living in Japan. All of a sudden, I’m living here! Wow! How that happened?!? Did I really do it? Holy shit! I’m walking down a street in Berlin to go home and cook dinner!!!

Streets, buildings, trees, dogs, people…  All the scenes in this city are still so fresh to my eyes and cognition that it blurs me out and makes the reality dream-like.

I don’t have to go through a strict training but merely strolling in town gives me that precious state of mind. Lucidity. Alerted consciousness leaves tranquility to me. Pains that stem from my gross body float away and vanish. Eyes wide shut (the perfect phrase to describe this).

My everyday is indeed lucid. I’m straying into a maze of dream of reality…

日独米のサービス事情いろいろ

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バーニングマンExodusでは、BRC市内から県道(?)447に出るまで9時間かかりました。1時間完全に17レーン全停止のあと数百メートルノロノロ進んでまた止まるの繰り返し。普通にいけば10分くらいの道のりなんだよな。あれほどの待ち時間はそんじょそこらではないだろー貴重な体験じゃったなーと、ベルリンに戻ってきました。

今日はドイツがパブリックに提供しているコミュニティカレッジへ語学学校の質問をしに行きました。Volkshochschule -フォルクスホフシューレ-と言います。どんなクラスがあるか、タームの途中からでもレジスターできるのか、料金体系はどんなか、といったベーシックな質問をしたかったんです。

結果、長ーい列に並ぶことになりました。

あー、そうだった!この国、The 待ち時間だったじゃん!と思い出す。

日本みたいに「受付窓口」という緩いくくりでみんなの何でもに対応してくれる所がドイツの役所や機関にはないらしいと気が付き始めました。市役所も外人局もコミカレも、1階はほぼ何もなくてまず2階に行く。レジストレーションオフィスがあるけど、ここは完全にレジストレーションのみ!雑多な質問、相談は受け付けません。

レジストレーション部屋に並んでた人が親切に「奥の◯◯番の部屋に行くと対応してくれるわ」と教えてくれたので行ってみると、部屋の前の廊下に長い列。入口にはドイツ役所系でお馴染み!整理券発券機。どんな仕組みで何が行われているかわからぬままとりあえず整理券ゲット。椅子に座って様子を伺ったり、すでに用事を済ませたらしき人に話を聞いてみると、どうやら1人1人ドイツ語テストを受けてレベル分けしてから申し込み用紙に記入してレジストレーションという流れみたい。

お金はいるの?

IDはいるの?

単に質問したい人はどこにいけばいいの?!

試験は全部ドイツ語??

さまざまな疑問がぐるぐる渦巻くものの、他に質問に行った人があえなく玉砕して並んで待つように促されてるのを横目に見て、沈着冷静に待つことにしました。この待ち時間、日本だったらブチ切れるところですが、ドイツの列が長い理由は「サービス」の概念が日本ともアメリカとも違うからだということが解り出したので、仕方ないと感じれるようになってきた。先週までアメリカに帰ってたからこそ作ることができた3つの視点はとてもとても大事。日本とアメリカが似ててドイツだけ全然違う部分。ドイツとアメリカが似てて日本が全然違う部分。日本とドイツが似ててアメリカが全然違う部分。どの国もてんで違う部分。3国民とも共通の部分。いろいろ。

それに、ベルリンで私は何の予定に切迫されてるわけでもないから、何時間待とうが別にどーってことないのよね。先を急がねばならぬことはないし、他にやらなきゃいけないことがあるのにできなくなってしまうー!というフラストレーションもないから、待つことが「無駄な時間」にならない。時間の意味合いはライフスタイルとその土地の文化で劇的に変わるね。

ちなみにドイツのサービスは全く画一化されてないのが特徴のようです。さすが、ホフシュテッド(超古典w)の比較異文化研究で “individualistic” の強度がダントツ高いドイツ。個々人のニーズが満たされるまでマンツーマンで話し合いがなされます。 Super customized とも言えるかしら。だから長い列になるんだね。待たせることが「サービス上の悪」と捉えない。1人1人とじっくり話す。ここがサービスの質。その人が終わったら次。とてもシンプル。

706から720にいくまで小1時間。途中5,6人は待ちきれずに帰ってしまったのかいなかったので、一気に私の番号まで来たからこの時間。全員いたら2時間以上待っただろうなぁ。

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ドイツの役所系の建物に行くと、普通のオフィス部屋に通され、担当者のワークデスクの前に座ってやり取りします。受付用のカウンターや応接室ではなく、その人が普段仕事してるデスクに行くの。だから、部屋に入るとリラックスするけど、外で待ってる間は中の様子がまったく見えないので、何がどうなってるやら不安になります。

呼ばれて担当者のデスクに行って座ると、まずシーンってなります。これもドイツのサービスの特徴だと思う。日本とアメリカでは、お客さんが席についたら開口一番「どのようなご用件でしょうか?」「今日は何が必要ですか?」「◯◯についてご質問ですか?」など、必ず役所なりお店側の人がリードを取ります。お客さんから話しだすプロトコルではない。

ドイツは違うのだ。こっちが用件言わないとシーンとしたまま。向こうはむっつり待ってます。恐らく、何か用事があってここに来てるんだから、わざわざ “how can I help you today?” なんて美辞麗句を言う必要がないって感覚なんだろうな。そして、用件は自分は知るよしもなくお客さん本人が知ってるんだから、さあどうぞ言ってください。それに応じて動きますよ。というスタンス。

2秒ほどシーンとしちゃってから「あ、そうだそうだ、私が用件言わなきゃ」という見えないコミュニケーションルールを思い出し、基礎コースを受けたいからレジストレーションしたいと伝えると、それから一つ一つ丁寧に私の質問に答え、入りたいクラスに登録してくれました。テスト受ける必要なかったし、レジストレーションオフィスにも行かずに明日から授業に出て、お金は休憩時間に払えばいいですよ、だって。

帰り道に教科書を購入。ただ質問して様子を見るだけと思って行ったら、あっという間に明日から学校となりました。

祈りとお金は同じもの

8月20日から9月4日まで北カリフォルニアのベイエリアに帰っていました。第2の故郷として焦がれてやまない地。8月26日から9月2日まではバーニングマン。5年振りに訪れた砂漠は、異国の地、ベルリンに移り住んだばかりの私にとって十分過ぎるほど「ホーム」でした。どこに行けばいいか、何をすればいいか、どう振る舞えばいいか知っているープロトコルが脳内に組み込まれていることで人は安心感を得るのだと、ドイツからアメリカに行ってみて気付きました。日本ードイツでも、日本ーアメリカでも気付かなかっただろう第3の橋がゆっくりと築き始められた。
 
バーニングマンでは商業活動(バーニングマンオフィシャルが運営するセンターキャンプカフェと、バイタルな氷販売以外)が禁止されている。一方で、フェスティバルに参加するためには高いチケットを買い、砂漠で生き抜くための食料やシェルターを全部準備しなければならないので多額のお金がかかる。この二律背反は批判の対象によくなるのだけど、私はこれでいいのだと思っている。ブラックロックシティという都市を毎年1週間だけ作り、商業活動ではない別のエコノミーを実践する、その「習わし」を毎年踏襲することが大事なのだ。芸術作品は永続性があるかないかで価値が決まるわけではない。365日持続していなければ意味がないわけではない。リチュアルには機能がある。限られた時間だけでも試していくことが重要だ。その体験から得られたマインドは、回を重ねるごとに徐々に普段の行動を侵略していく。Positive Infection.
 
私はお金に付与された不要な心理的意味を洗い流し、お金が本来持つ純粋な機能を際立たせたいと思って今の生活を始めた。信頼を積み重ねた仲間が渡してくれるお金を礎として、あるがままの生き方に近づいて行く。お金とはカレンシー。流れるもの。エネルギーだ。人間が生み出した極めて精神性の高い道具。
 
何の契約も約束も返済もお願いごとも求められていないお金を手にした。いつ何にどう使おうと私の自由。散財してもいい。ナホらしく生きることだけを願ってくれる22名から、世界と人間を探求する時間を与えてもらった。彼らはお金という形で私に愛情を届けてくれている。言葉で応援するだけ、心で念じるだけではないコミットメント。私がどんな可能性を見出すかを楽しみに贈られるお金。
 
「祈りとお金は同じ。」
 
こんなフレーズが急に降りてきた、今日の帰り道。
 
お金と祈りは結局のところ、同じものになり得るのだ。エネルギー体であるという性質を同じくしているだけでなく、どんなエネルギーであるかという特徴すらも同一でありうる。(※お金がお布施のように神聖なコンテクストで用いられることは多々あるけれど、私たちの実験には宗教や信仰が絡んでいず、世俗的で感情的な人間同士の愛という関係性においてお金が巡っているところが大切なポイント。)
 
お金は様々なエネルギーを生み出す二次的(メタレベル)エネルギーだ。さまざまな行動を可能にしてくれる。ただ留意すべきは、すべての行動、活動にお金が必要なわけではないこと。だから、生きるためのどこにお金が必須で、どこは必須ではないかを見極めなければならない。この線引きが大事。なぜなら、何にでもお金は要るものだという前提で生きてしまっているのが現代社会の発達した都市部に住む私たちの固定観念だから。ここをディコンストラクトしていこう。

流れる

ビザ申請のために私に美しい推薦状を書いてくれたアーティストのスタジオに遊びに行ってきたよ。彼の作品は基本は木版画だけど独自の手法を編み出していて、私たちが木版画と聞いてイメージするものとは違います。サイズは2x4メートルといった巨大なものばかり。圧巻でした。アートモチーフは何かと尋ねたら「僕の哲学だよ。哲学を言葉で書かずに僕は視覚的に表現するんだ」と言っていました。

マホガニー製の巨大な円形の水で渦を作る装置(水の動力を利用している。渦の中心に人が立っても水がかからないように設計されている)の小型版がスタジオにおいてあったので、水を入れてもらいました。作った動機は「渦の中心にいるのがどんな気分かを溺れることなく体験してみたかった」からだそう。さすがアーティストな発想!水は一番早く流れる道筋を選ぶ性質があるそうです。Water naturally chooses to move the fastest. I’m very fascinated with the fact!

他に、酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出すの私たちの呼吸の性質を利用して、人の吐く息を貯めていってダイアモンドを作る装置を化学者のお父さんと共同で開発したのだ!!!彼の息でできたダイアモンドも見せてもらいました。

絵画、版画、建築、工学に物理学、化学まで使ったアート作品たち。

Martinとの会話でとても示唆的だったのは、化学の側面から言うと、この世界で物質は「無くなる」ことは決してない、という事実。原子の繋がりや組成が変わることで質や形が変わるけれど、構成する要素は決して消えてなくなりはしない。常にこの世に存在している。木が燃えて灰になっても原子レベルでは同じ(バランスは変わるから物理的には木はなくなっているけれど)。

この言葉に、とある友人が言っていた「お金が減るのは勘違いだと思う」という意見を思い出した。お金を払ったり消費して、お金がなくなる、減ると認識する私たち。でも、本来は手元からお金がなくなる、減っているのではないのかも。お金を使うことは化学変化と同じようもの。

ナホのいる生活を始めたのは、旧来的なお金の観念のように私が「払う」「消費する」「取られないように守る」のではなく、私の体をメディアとして、お金というエネルギーが流れてく(currency)状態にしたい想いがあったから。化学からヒントをもらった夜でした。

ベルリンからのつぶやき。日本。

日本は行きつくところまで行きついてしまった国/社会だなぁ。

千年単位の歴史と文化を保有し、テクノロジ—も経済も医療システムも成熟し、治安は抜群によく、町は清潔。戦後ずっと平和を維持してきたおかげで、諸外国から日本人(日本国ではない)に対する信用度はありがたいほどに高い。サービス産業のクオリティは他国の追随を許さない。美しい海に四方を囲まれ、豊かな山林と水脈を宿し、狭い土地ながら幾つもの気候があり、季節を巡らす。とにかく、さまざまなことが豊かで、恵まれている。経済大国になったし、平和大国になったし、ネットが安定して超速いし、suica1枚で日本中どこでも電車とバス移動できるし、長寿国だし、並べればきりがなり。こんなに隅々まで整ってて、住みやすくて、綺麗な国はないのだ。

一方で、高齢化社会、人口減少、それに伴う医療と福祉の話、資本主義の行き詰まり、そして原子力事故の見えない行く末、というように、違った角度の物事を並べてみてもきりがないブッチギリっぷり。民主主義を進化させるのか、それとも全く違う方向に走り出すのか?政治の面でも壁にぶつかってる。日本はいい意味でも悪い意味でも、先進国の中でダントツトップで先を行ってしまった。他のどの国も知らない世界に突入してる。だから人類のモダーンソサエティの実験場になってると思う。

私たちはこんなに遠くまで来てしまった。チョロQみたいな走り方で。

今の日本の文脈に合うものって、もう海外からは持ってこれないと感じる。例えばTEDxというフォーマット。もう合ってないんじゃないかな。4年間がっつりやってきたからこそ感じる。2012年までは合ってた気がするけど、2013年の夏の今は、だんだん日本社会の置かれている場所と、TEDとTEDxが提供してるものはズレてきてる気がする。っていうか、TEDは一例であって、外から何か持ってこようとしても、どこにも見つからないんだって。日本が日本から生み出してくしかないフェーズなんだ。

と言いつつも、ベルリンには希望を感じる。この町ね、ほんとにすごい歴史を通ってきてる。私はまだまだ勉強不足。だからこれから学んでいこう。ベルリンには何かある。東京にも撒ける種がある気がする。デザイン思考とか、ファブとか、エコとか、TEDとか、クリエイティブうんちゃらとか、ワールドカフェとか、1つの理論やテクノロジ—やフォーマットを持ち帰るってことではなく、町そのもののうねり。辿ってきた道のり。そこに生きた人間たちの軌跡。そーゆーバイブレーション。

バイブレーションを持ち帰るためには何かしらの器が必要だから、デザイン思考とかファブのように「切り取られた形」になって広まってくんだろうけどね。だけどほんとは、バイブレーションそのものが伝わったらいいのにな。方法論や技法やシステムではなく、スピリットを学ぶって感じかも。

それにしても上記になんとなく挙げたものって大概がアメリカ発じゃない?あるいはUK?

そうさ。

つまりは、日本よ。

世界は広いのだ。

広い世界にまるっと繋がってから、日本で生み出していく。

世界の突端で。

丸いから、端っこだけど端じゃない。

またもとに戻る。

かな。

 

 

 

職業としてのアーティスト

ビザ申請準備をしています。

山はポートフォリオ。これまで、いわゆる職業的アーティストとしてやってこなかった私が、オフィシャルにアーティスト活動をしてきたことを示さなければなりません。

4年間の日本での数々の試みを振り返る。

コミュニケーションは絵を描くための筆のようなもの。コミュニケーションの一筆一筆に魂を込め、鮮やかな色彩を出していく。人間関係の1つ1つが私の作品。

人間関係には愛と美が兼ね備わっていないといけない。

人生がアートと謳ってきた自分を、いよいよ法的文書のカテゴリーにおいて「アーティスト」に入れ込む時がきた。数年前には想像だにしなかった展開。

自分のための職業を発明し、自分の仮説に従った組織をデザインし、自分の哲学を方法論に落とし込みワークショップや講演を行い、仲間と一緒にいくつものコミュニティを育んてきた。

働き方、集い方、暮らし方、愛し方、生き方の社会実験。

私がやってきたことは社会彫刻という分野になると教えてくれた友がいた。

私が生み出すものは文化だと教えてくれた友がいた。

過去の蓄積を総括し、細分化し、分析し、再構築し、また崩し、新たな意味付けをする。

私という職業は何者か?

どんなポートフォリオになるだろう。

初めてのハッカソン

betterplace Lab x Peace Innovation Lab Berlin が共催する3日間のハッカソンが終りました。ドイツ拠点のクラウドファンディングプラットフォーム betterplace.org への寄付をより魅力的に、ユーモラスに、日常の行動の一部にするためのハッカソン。デベロッバー、デザイナー、クリエイター、起業家、コンサルタントなど異業種の人たちが集まり、アプリケーションやウェブのアイディアを持っている人たちを中心にチームを作り、コンセプトメーキング、デザイン、モックアップ作成、発表という流れでした。

なぜ参加することになったかと言うと、Peace Innoation Lab Berlinを運営している友人がフェースブックでイベント告知しているのを見つけたのが始まり。私がベルリンで取り組んでいるアートプロジェクトが、クラウドファンディングを使わず、自分が育てたコミュニティを基盤に、愛情と信頼関係をすでに築いた仲間同士でお金を贈り、受け取り、流すという、お金の意味づけを転換させる社会実験なので、なにか関係あるかなーと思って申し込みました。

意外なことにドイツでも60%の人は寄付をしないそうで、どうやって「お金を出す」文化を根付かせるか、アメリカやイギリスの先進的例を参考にするあたりは日本と似たようなポジションなんだなーと学びました。

How can we make donations sexy?
How can we make donations interactive?
How can donating add value to the person giving?
How can donating be integrated into our daily routines?
How can we attract the 60% of the Germans, who have never donated?
How can we improve products and services through donations?
How can we catapult donations to the next level?

数々のアイディアピッチが行なわれた後、晩ご飯を食べながら(Abendbrot-夜のパン−が「夕飯」という意味になるドイツらしい、パンとチーズとハム!)興味あるアイディアの人と話したり、似たようなアイディアのグループで合流したり、自発的にチームを作っていき、夜9時過ぎからチームに分かれて作業が始まりました。

私は「お金はもはやセクシーじゃない!時間をドネーションしよう。」というアイディアを出したアルバニア人のチームに入ることにしたよ。アルバニア人、ドイツ人、スロベニア人、日本人という色彩豊かなメンバーです。寄付はワンクリックで済んでしまう瞬間的なトランズアクション。でも、必要なのは共感する気持ちと継続的に支援するコミットメントだよね。そのためには、お金を出す、プロボノを提供するという行動に移る前に、まず興味を抱き、もっとプロジェクトのことを知れて関係性を構築できるスキームが入ればいい。Attention(意識)を傾ける時間をまずは作ろうじゃないか、というのがベース。

クラウドファンディングのためのスマートフォンアプリケーションをデザインする場に立ち会うことになるなんて想像もしていなかったのですが、やってみると単純に面白かったし、私みたいにIT,Fab, Makersのような「タンジブルなものを作る」ことから縁遠い人間でも、チームメンバーとして役割を持って、開発フェーズに付き添えると体験できてよかったです。

やっぱり私の強みは、人が発信したいアイディアの裏にある情熱や思想を掘り出し、ロジックフロー(ストーリーライン)を立て、それをしっかり創作物のデザインに反映させるために、チーム内でコミュニケーションを深く、リズミカルにしていくプロセスデザインだなと実感しました。つまりほんとに初期フェーズ。モックアップを作って試したり、プレゼン資料を作るのは、建築家、医療系テクノロジ—事業家、エンジニアのチームメンバーがやってくれました。私は横から色々言ってるだけw

プロジェクト名はどうする?ロゴは?タグラインは?キーカラーは?

このアプリケーションで一番達成したいことは何?

どうしてそもそもこのアプリケーションを作りたいと思ったの?

国籍も言葉もバックグラウンドも違う初対面の人と、いきなりブレストし、デザインし、成果物を作るのは容易ではないけれど、人間誰しも譲り合うし、人の話を聞いてくれるし、説得しようとするし、こういうのがカッコいいよね、とか、こういう方がもっと人間らしくていいよね、とか、共有する基盤がある。

過去にcross-cultural/Inter-cultural communication理論を学び、global communicationとは何かを研究テーマにしたことがある。そうした知識と多国籍チームでの活動経験を鑑みると、短期的、あるいは連続性のない小さい組織(チーム)活動においてはglobal communication能力がより必要になる。中長期で継続的に活動し、そのため組織にストラクチャーが入ってくるとcross-cultural differenceやinter-cultural relationshipの要素がどんどん大きな役割を占めてくるのかもなー、という所感を覚えました。

続・家を探しています

家探しを始めてからおよそ10日。7月中旬に差し掛かるにあたり、「即、見つけなければ!」という危機感?がぐぐぐぃっと出てきた昨日の朝。家探しは友人知人にそのことを知らせて、情報が入ってきたら流してもらうのがベスト。とある友達に相談をしようと思いました。思い立ったが吉日、午後に会いに行きました。ベルリン来てすぐに会いたかったんだけど1ヶ月以上経ってしまい、やっと再会できました。

彼はAcci Babaというアーティスト。2010年6月の記念すべきTEDxTokyo yzキックオフイベントで、ベルリンからわざわざ来日してくれた。不思議な縁のある人。 https://www.youtube.com/watch?v=kXFn8xBHwn8

Skypeを介して2人でプレゼンテーション作りをしたな〜。馬場くんの奥さんは、私のことをまるで妹か娘のようにかわいがってくれてる友達の大親友。4月に日本で会った時「今のご近所さん(私の姉貴家族)と未来のご近所さん(馬場家)がいる〜♪」と喜んでいた私w

馬場くんの新オフィスでのんびりしてきました。自営業クリエイターが集まるシェアオフィス。ひろーーーくてキッチンもバスタブもあって、撮影したり作品作るスペースもあり、ベルリンらしい居心地よい空間でした。

オフィス仲間を紹介してもらいました。その中でちょこちょこうちらのところに来て会話に混ざって盛り上がったのは、ベルリン在住20年近くになるオーストラリア人。馬場くんが彼に私が部屋探ししていることを告げると、「今ぱっとは思いつかないけどFBメッセージでたまに回ってくることあるし、情報入ったら教えるね」と言って自分の部屋に戻って行った。

ちょっとして彼がうちらに向かって声高に「ルームメイト探している友達がいる!」と言ってきました!「2人から言われて5分後にFBメッセージきた。僕のすごい仲いい友達だよ。」

というわけで、FBでその人に繋げてもらいチャットを開始。そしたら、「今日、広告を出したばかりで家の内見は土曜日からなんだけど、今夜うちでBBQするからタイミング合えば来る?」と誘われたのです。オフィスがある場所からその家までわずか数駅。

「何時から何時まで?」

「今から2時頃(夜中)まで」

「行く!!!」

あれよあれよと家を見にいくことに。オフィスに遊びに行った最初のうちは馬場くんと2人で家探しの難しさ、苦労、流れやタイミング、相性の重要さを共感し合っていたばかりだったので、この展開の速さと面白さにみんな少し興奮気味。

家はとーーーーーーーーっても素敵なバルコニー付きペントハウス。家主さんとは仕事のフィールドが被る部分があって意気投合しました。家にも人にもしっくりきて、住みたいと感じられたのは今回が初めて。この家に住むことにならずとも、友達として仲良くしていきたいと思います。それだけでも大満足♪

かーなりしやわせ気分で帰宅してメールを開いたら、さらに6、7通部屋探しの返信がきていた!そのうち4通はスパムでなく、きちんと家の内見とインタビューを予定してくれているもの。普段だったら10通打って1通の返信、そのうち半分以上がスパムなのに、なんだ今日1日でこの打率!ついでに、別の友達もルームメイト探している人の情報をくれておりました。

なので今日、明日、明後日とさらに4軒見に行ってきます。

1つ前のエントリーで書いた部屋探しへの想い。ああいうスタンスにシフトすることができてから心が落ち着いてきて、そこへ昨日の「まじで部屋をすぐ見つけなきゃ!」という緊急の現実的ニーズが生まれ、んでもって会いたいと思っていた人に即行会いに行ったら、こういう風になった。Voila!

あと、部屋探しのメッセージ内容を少し変えたのが効果あったんだと思う。

いくらわけがわからないと言えど、素の私の文章を見て「いい」と感じて返信くれる人を望んでるから、日本でCommunication Process Designerという職業を自分で作ってやってきたこと、ベルリンに渡ってアーティストビザを申請し、生きる実験をアートとしてやっていくことは書いてました。そこはまったくいじってないんだけど、1行「アートファンドをもらってベルリンに来ている」と添えたんだよね。私がやっている暮らし実験は厳密にはfundとは違うかもしれないけど、見方によってはそうだし、文脈に合わせて相手が解釈しやすい言葉で説明していけばいいのかなと思っています。ルームメイトを探している人たちが求めているのは何より支払い能力。ベルリンでアーティストビザ申請中って書くと、=お金ない。になるのです。

この返信の劇的変化。あの1行が効いたんだな。

一方、夕べ見に行ったところの家主さんとの出会いはそのループとは違う、「人との繋がり」だけで出てきたもの。

偶然なのか何なのか、この日、馬場くんは6ヶ月間かけて制作していたアートワークを、私の目の前で完成させたのです!!!ラストピースの大きさや角度の微々たる調整に試行錯誤を重ねていた後に、「これは終るかも」という彼の言葉と共に接着され、ピタリとはまった。

さまざまなものが持ち、発し、影響し合っているエネルギーの戯れの妙を実感した1日でした。