祈りとお金は同じもの

8月20日から9月4日まで北カリフォルニアのベイエリアに帰っていました。第2の故郷として焦がれてやまない地。8月26日から9月2日まではバーニングマン。5年振りに訪れた砂漠は、異国の地、ベルリンに移り住んだばかりの私にとって十分過ぎるほど「ホーム」でした。どこに行けばいいか、何をすればいいか、どう振る舞えばいいか知っているープロトコルが脳内に組み込まれていることで人は安心感を得るのだと、ドイツからアメリカに行ってみて気付きました。日本ードイツでも、日本ーアメリカでも気付かなかっただろう第3の橋がゆっくりと築き始められた。
 
バーニングマンでは商業活動(バーニングマンオフィシャルが運営するセンターキャンプカフェと、バイタルな氷販売以外)が禁止されている。一方で、フェスティバルに参加するためには高いチケットを買い、砂漠で生き抜くための食料やシェルターを全部準備しなければならないので多額のお金がかかる。この二律背反は批判の対象によくなるのだけど、私はこれでいいのだと思っている。ブラックロックシティという都市を毎年1週間だけ作り、商業活動ではない別のエコノミーを実践する、その「習わし」を毎年踏襲することが大事なのだ。芸術作品は永続性があるかないかで価値が決まるわけではない。365日持続していなければ意味がないわけではない。リチュアルには機能がある。限られた時間だけでも試していくことが重要だ。その体験から得られたマインドは、回を重ねるごとに徐々に普段の行動を侵略していく。Positive Infection.
 
私はお金に付与された不要な心理的意味を洗い流し、お金が本来持つ純粋な機能を際立たせたいと思って今の生活を始めた。信頼を積み重ねた仲間が渡してくれるお金を礎として、あるがままの生き方に近づいて行く。お金とはカレンシー。流れるもの。エネルギーだ。人間が生み出した極めて精神性の高い道具。
 
何の契約も約束も返済もお願いごとも求められていないお金を手にした。いつ何にどう使おうと私の自由。散財してもいい。ナホらしく生きることだけを願ってくれる22名から、世界と人間を探求する時間を与えてもらった。彼らはお金という形で私に愛情を届けてくれている。言葉で応援するだけ、心で念じるだけではないコミットメント。私がどんな可能性を見出すかを楽しみに贈られるお金。
 
「祈りとお金は同じ。」
 
こんなフレーズが急に降りてきた、今日の帰り道。
 
お金と祈りは結局のところ、同じものになり得るのだ。エネルギー体であるという性質を同じくしているだけでなく、どんなエネルギーであるかという特徴すらも同一でありうる。(※お金がお布施のように神聖なコンテクストで用いられることは多々あるけれど、私たちの実験には宗教や信仰が絡んでいず、世俗的で感情的な人間同士の愛という関係性においてお金が巡っているところが大切なポイント。)
 
お金は様々なエネルギーを生み出す二次的(メタレベル)エネルギーだ。さまざまな行動を可能にしてくれる。ただ留意すべきは、すべての行動、活動にお金が必要なわけではないこと。だから、生きるためのどこにお金が必須で、どこは必須ではないかを見極めなければならない。この線引きが大事。なぜなら、何にでもお金は要るものだという前提で生きてしまっているのが現代社会の発達した都市部に住む私たちの固定観念だから。ここをディコンストラクトしていこう。

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