自己認知/自己同一性と言語表現の乖離

アメリカ生活1年目の年、自己を表現するために口から発せられている言葉と、自己認知が大きく乖離し、自分が自分でなくなるという不調和を経験、アイデンティティクライシスが起こった。

ベルリンに来てドイツ語を集中的に習得し始めたことで、英語、日本語もおぼつかなくなり始めた。処理スピードが目に見えて落ちている。もちろんドイツ語では表現できないわけだから(自己表現どころか、他者が言ってることがまずわからない)、どの言語でも言葉がうまく出て来ない、そもそも考えが浮かばず空白になる状態に頻繁に陥る。思考は言語を以てするものなので、「考え」が浮かぶ手前のところでスタックしているわけだ。ふたたび、自己認知と言語による自己表現の乖離が置き始めている。言語表現と自己の間に溝があるということは、要するに、自分を言語を使っては思うように出せないわけで、結果、他者による私の認知にも影響してくる。そして、「ほんとはこうじゃないのに。他者は私をこう捉えているんだろうな。」という思いが生まれてくる。実際、それはある程度正しいだろう。他者は私を、日本にいた時の私のようには認識しない。なぜなら私自身が違う行動を表出させているから。もともと日本語でも、人の話を聞いている方が得意という性質と、成長フェーズで「蛹」にいて、他者に伝えたいほどの思考や意見が減少しているのもあり、私の沈黙度は拍車がかかっている。そうすると、「話さないけどなんとなく漂ってくる雰囲気」「存在感」「空気感」とやらで判断されていることになる。だって、ただ座ってるだけのことが多いから。

日常生活では時として不満足に繋がるものの、今は(わたしの)命と存在にぴったりと一致しているので、乖離プロセスにある私こそが「今の私」であるという、瞬間瞬間移り行くアイデンティティを生み出すことができている。アイデンティティという言葉があってるかわからない。「移り行く」という形容詞と「アイデンティティ」の定義は相反しそうだから。でも、移り行くアイデンティティだ。これはディスインテグレーションでもある。

身体とアイデンティティの連動

アイデンティティとは、自分の持っている思考であり感情であり行動であり記憶であり社会関係であり自己定義である。何かを考える時、感じてる時、思い出す時、他者とコミュニケーションしてる時、自分を見つめる時、私たちの体は動いており、どこかが必ず反応している。そして、最も頻繁に反応する体の部位が誰にでもある。きっと1人1人違うが、生きている限り体は働いているので、生きている間に起こっているすべての事象に対して、身体のレスポンスがある。私たちの多くは、それを知覚できていない、あるいは意識できていないだけだ。

何を言いたいかと言うと、アイデンティティと連動している体の部位がある。身体というレイヤーにあるアイデンティティを知覚できるようになると、まるでブラックホールのようなものだということがわかる。ぎゅんぎゅん強力な吸引力で、近くにいくと重力は効かずに吸い込まれて忘却する。全身にその波動を送っている。忘却されるのは、刻々と移る瞬間瞬間をとらえる光明な意識だ。

身体内のアイデンティティ(と連動している部位)を解すと、アイデンティティのディスインテグレーション(分解/崩壊)が起こる。こうしてアイデンティティからの自立ができるようになってくる。