解放

年末年始は家におにぃが帰ってきています。今夜は葉山のお寿司屋さんにママンと3人でお夕食を食べに行きました。私の渡欧の件、昨年の春頃からママンには刷り込んできていました。秋にはおにぃに報告し「好きにしなさい。」と言ってくれました。

不思議なもので、1対1だと気張れば言えることが、同じ相手でも「皆揃って」になると言い辛くなることってあって。なんだろね。「公認の事実」のパワーすごし。

「よし、新年2日目だし改めて家族の前で渡欧のことを話そう!」と思い、ドキドキしながら言う機会を伺っていたら、ママンが予期せぬキラーパス。「ナホちゃんまた出てっちゃうのよ。」

いや〜、集団の利点は自分だけで気張らなくてもいいとこですね(笑)。全部1人でやろうとしなくても、相手が勝手にやってくれる時がある。そんなわけで、和やかに家族内の周知のこととなり、渡欧へ大きく大きく一歩近づきました!何と言っても、ただ1つの心配は、初めての1人暮らしになるママンと、とにかく色んなことをまるっと引き受けてくれてるおにぃだったからね。

ママン「すぐ帰ってくればいいのに〜。」

おにぃ「1、2年、楽しんだら帰ってきたらいいよ。」

という言葉にはホッとしたわぁ。行くことも、帰ってくることも異議無し。井口家は、各々の人生を相談することが皆無に近い。決断に反対することもない。

今夜、もう1つ大きな変化があった。父のことがおにぃの口から出た。葬式で棺桶の蓋を閉めている時に涙を少し流したのが、彼の唯一の父の死に対する反応だった。あれから4年と8ヶ月。家族3人で初めて父の話が出た。ほんの少しだったけど。

日本に帰国してからの日々は、父の死との葛藤だった。葛藤は、わたしを己と向き合わせた。対峙すると、生まれてから重ねた齢の分だけ蓄積された、心や記憶や体のあくなき探求へ導かれた。何度も何度も嘔吐のような脱皮を繰り返した。32歳の時、先天的なものと後天的なもの、両方合わせて自分が持っているすべてを引き受けられたと感じた。受精してから今までという「過去」に降服した。過去をすべて見渡すと、過去は今となり、もう過去を捉えたり、癒したりすることで今を感じようとせずに済むようになった。生まれつきのことや、幼い頃にたまたま与えられた環境や、過去の出来事と、現在の私の因果関係から解放された。あるのは今と未来と、それを支えてくれる過去。

父の死という現象からの解放と共に、32年間の自我からの解放が起こり、これから新たな地(知)(血)へ赴きます。

ヴィパサナ瞑想の質も変化してきました。これまでは、無意識層の身体に潜む過去を解きほぐしていく手術と治癒のプロセスだったのが、最近は、自分の死をきちんと取り扱うための「意識化の技」を身につけるためにやっています。死はわたしたちの未来です。未来に向かってする準備の瞑想。

2012年の仕事納めの日に

2012年12月18日に開いたTEDxTokyo 2013チームのキックオフにて、TEDxTokyo オペレーションディレクターを正式に引退しました。

2009年1月24日に青山で開かれたワークショップで偶然トッドに出会い、2月に自由が丘のカフェでパトリックと3人で話をし、カーラという女の子と一緒にローンチチーム立ち上げのために動き始めました。トッドが思い描くbig pictureのあらすじと、そのためにTEDxTokyoを5月にやると聞いただけ。他には大した情報も知識も指示も枠組みもありませんでしたが、迷いも不安も恐れも同じようにありませんでした。なにもなかった。

5年の時を経て突如、日本に再適応しなければならなかったこと。新卒じゃないくせに就労経験ゼロで仕事を見つけなければならなかったこと。そろそろ社会に居場所を見つけなければこのまま落ちてくという腐敗臭のようなものが漂い始めたこと。振り返ってみれば、不利なカードばかりが手元に残っていたけれど、それさえどうでもよくなるような絶望にまみれていたなぁと思います。父の無惨な死は、私にこの世の無情を叩き付けました。たった28年ですが、それなりに築き上げてきた価値観が粉砕されました。この世に生を受けたものとしての限界と、わたしの限界がピッタリと一致した時でした。

死なない限りはなんとかなる。それ以外はすべて下らない。本気でそう思っていたので、当時はイメージと可能性以外は何もなかったTEDxTokyoという得体のしれぬものに飛び込む決意をすることも、そこでフリーランスの道を開拓していくことも、恐れや不安を呼び覚ましませんでした。失敗したってそれが何なの?生きてるんなら、なんでもいい。「毎日の生活」と「働くこと」と「死」に繋がりが見えたころ、社会人1年目を走り出しました。亀の甲より年の劫。

時間とコミュニケーション能力と組織心理学の知識だけはあった私にとって、野原のようにだだっ広くて「動いたもん勝ちだよ。どんどん好きにやっちゃって!」なTEDxTokyoは最適なコンテイナーだったんだなぁ。改めて納得。「これはよい乗り物になる!」という直観は正しく、觔斗雲のように、1人では辿り着けない所へ次々と運んでくれました。

2010年からはオペレーションディレクターとして(英語ではCommunity Catalystだけど、日本ビジネス界には通じないので何となくつけたw)チーム育成、コミュニティデザイン及びカンファレンス企画執行をやってきました。並行して、TEDxTokyoのスピンオフであるTEDxTokyo yz を代表として始めました。こっちはパトリックとトッドが完全に任せてくれたので、「新しい組織論を作る」という野望な実験を本格始動。2歳半となったTEDxTokyo yzコミュニティは健やかに育ってくれています。2013年2月2日に開催予定のイベントで卒業となりますが、私の弟たち妹たちが引き継いでいってくれるでしょう。

今年の4月25日、人間という動物として生を堪能するという茫洋たる目的のもと(私にとっては単純明快、確固たるものですが)渡欧を予定しています。2008年4月24日に父が他界し(ちなみに父が死んでから「24日」とは因縁があり、摩訶不思議に人生のマイルストーンな出来事が24日に起きてきました。トッドと出会ったのも24日だとさっきカレンダーを見返して発見)、アメリカから帰国したのが翌4月25日。5年目にまた出ます。

そうそう、33歳のお誕生日に「今年の漢字は?」という質問をもらいました。

「出」

です。

「出る(デル)」

「出る(イズル)」

日本の土では発芽しない私の中に宿る種。ヨーロッパという未知の土に触れることで、芽を出してきます。

行く年来る年

昨日はお誕生日でした。満33歳になりました。33年間、五体満足、心身共に健やかに生きてこれたことに平伏します。

33年生きて初めて、生まれてから今までの辿ってきた道をすべてサーチライトで照らし、向き合い、消化し、治癒し、承認し、受け入れ、愛することができたなという実感を抱いています。生まれつきの肉体や体質が与えるいい、悪いもの。この家族に生まれた素晴らしいこと、チャレンジングなこと。幼い頃に刻まれた甘い記憶と厳しい体験。私の生まれ持ったカルマ。肉体レベル、心理レベル、魂レベル、すべてにおける私の33年間の蓄積。

今朝のメッタの瞑想では、頭になんとはなしに思い浮かんだ色んな生き物や、色んな人ー仲のいい人も会ったことがない人もーが幸せであるようにと愛の振動を送りました。他の幸せを想うと、自分が癒される気がします。錯覚かもしれませんが、ここに平安が生まれます。

最近、友人を亡くしたので、今日はこれまで亡くなった大切な人たちのことをたくさん思い出しました。自分の生を確かめることは、死を想起させます。

死とはどこか遠くにあるものではなく、ここ=私の中に、内包されています。死が道端に転がっていて、遭遇したら死ぬわけではありません。人間含め、生き物はいつ死ぬかわからない。死(の可能性/存在)は常に私たちに属しています。この認識は、恐怖ではなく謙虚さをもたらしてくれます。

また、「明日死ぬかもしれないから毎日を大切に生きよう」というような勤勉で勇気ある感覚は私にはありません。というより、先ほどの死への認識は「死ぬかもしれないから」という仮説の立て方から解き放ってくれます。死の客体化から抜け出ます。頭でする観念的な死への理解ではなく、本能的な「死との共存」です。

33歳の生活の指標を二つ決めました。一つは月経周期に合わせたスケジューリングをすること。排卵期、ホルモンの移り変わり、満月とのシンクロなど、肉体的に知覚できる明確なサインがあるので、心と体の求めるものに合った優しい暮らし方を意識的にプランニングしたらどうなるか試してみたいと思います。

もう一つは、living = dying。
死ぬ準備をしながら生きるとでも言うのでしょうか。ただこれは、老後を考えたり、遺言を書いたり、やり残したことをチェックリストに入れて一つ一つ達成するわけではありません。あるいは、病気になって死期が近付いた際に、事実を真正面から受け止めていけるような精神力を今から培うことでもありません。もっと実際的に死にいくことを取り扱う技を身につけたいと思っています。

現代日本やある一定の地域での常識では、死んでいく肉体と死んでいく意識は、脳や心臓の停止で判断されます。一方で、死んだ後も残る微細な意識レベルがあり、それは訓練によって養うことができると考える世界観、死生観もあるそうです。例えばチベット仏教僧は、輪廻のための次の肉体へ魂が無事渡るために、瞑想、夢、睡眠などのヨーガタントラを通して訓練します。

将来のビジョンは何かと聞かれても特にない私ですが、1番やりたいことは、人間という動物を探求し、可能性を発掘することです。人間を知るためには自分を実験台にするのが簡単です。

人間を人間たらしめているのは脳の発達からくる意識のスペクトラム。だから心理学にも関心を抱きました。この肉体が、この世界で行きつける最果てはどこか。山登りでもダイビングでもなく、私はそれを意識を乗りこなすことでやってみたいようです。

ヴィパサナ瞑想にまた行ってきたよ。

10月9日から20日まで京都ヴィパサナ瞑想センターに行ってきました。10日間座り続けるのではなく奉仕者として申し込んだのですが、どんな役割になるかは行ってからのお楽しみ♪ということで、9日のお昼前に到着すると、センターに長期滞在して奉仕と瞑想を繰り返しているクニちゃんから「コースマネージャーをお願いします。」と言われました。他にどんな役割があるのかも知らないし、センター側が割り当ててくれたのだから、「はい」と答えました。そこから怒濤のOJT(笑)が始まりました。いやはや、とにかく本当にすごい修行でした。

ヴィパサナ瞑想はDAY0からDAY11まであります。着いた日がDAY0。この日の夕方4時から生徒さん(瞑想参加者)が受付にやってきて、6時にお夕飯、7時からオリエンテーション。8時から瞑想が始まります。DAY1からDAY9までは聖なる沈黙と言って、コースマネージャーと瞑想指導者以外の人とは一切の言語・非言語コミュニケーションが禁止されます。視線を合わせたり、ちょっとしたジェスチャーもなし。「まるで自分1人しかいないように過ごす」ことが求められます。他者に触れること、書くこと、読むこと、描くこと、音楽を聞くこと、運動をすることなども禁止です。DAY10の午前中で聖なる沈黙は解かれ、翌日にセンターを離れて下界に降りる心の準備をします。DAY11の朝に最後の瞑想があり、掃除をして終りです。

お仕事は任命されてすぐに始まりました。右も左もわからぬまま、資料に目を通し、奉仕経験のある人を質問攻めにしながら、まずは生徒さん受け入れ準備。最初はまだ全員の奉仕者が揃っていないこともあり、キッチンでネギを切ったりあれこれお夕飯のお手伝いをしながら、受付の準備やオリエンテーションで説明しなければならないことを理解します。そしてあっという間に4時。何をすればいいのか半分くらいしかわかっていないことは内緒のまま、笑顔で「こんにちは。ようこそいらっしゃいました」とレジストレーションをします。そして7時になると、知った顔してコースやセンターでの過ごし方の説明を男女60名弱の生徒さんにします。職業柄、こういうことは慣れているはずだけれど、まるで、初めて入ったプロジェクトでいきなりオーソリティーロール、みたいな状況で、内心あわあわするし、しょっぱなから修行でした。ちなみに男女隔離の生活のため、男女に1人ずつコースマネージャーがいます。私の相方は屋久島からやってきた太一くん。コースマネージャー経験も豊富な頼れる男でした。

1日5〜6時間瞑想をし(生徒さんは10時間)、それ以外は生徒さん1人1人がどんな健康状態でどんな薬を摂っているかを把握し、瞑想中や休み時間での様子に意識を払い、彼女たちの生活ニーズや色々な質問に対応します。26名いたので名前と顔を一致させるのが一苦労。それから、瞑想開始と終了を知らせるベルを鳴らして時間管理をします。毎日、トイレ、シャワー、瞑想ホールや廊下、庭の掃き掃除をし、指導者と生徒さんがコミュニケーションする時の通訳、指導者からの指示への対応などフル稼働でお勤め。瞑想中も生徒さんの動きと指導者からの指示にいつでも応じられるように心構えしながらヴィパサナ瞑想をやるので、意識レベルをどこで保ち、深い無意識との対話と、現実世界で起こっていることをどう両立させていくかが鍵でした。特に生徒さんが指導者に質問をする時の通訳が大変。生徒さん自身、自分がどういう状態で何をどう言葉で表したらいいかわからないので、その言ったことをそのまま通訳するのが難しかった。指導者の言葉を間違えのないよう的確に伝えるのも修練が必要でした。瞑想状態から瞬時に脳の活動範囲をスイッチさせて通訳モードに入るために、自分でも気づいていない莫大なエネルギーを消費していた気がします。「ああー、頭がついていかないーーー」ということが後半になると増えていきました。夜は9時過ぎからメッタバーバナという愛と慈悲の瞑想を、生徒さん、指導者、奉仕者チーム、センター内のすべての生き物に向けて行ない、その後ミーティングをして、10時から10時半頃就寝。瞑想を始めると意識が違うステートに入って睡眠が浅くなるため、何度も目覚めたり、眠っている状態を観察したりしていました。

コースマネージャーは、指導者のすぐ横という瞑想する位置(すべての人の瞑想の座布団の位置は決められている)、生徒さんには許されていない行動の自由、規律を遵守しているかを見守るという役割、指導者と生徒さんを繋ぐという立場から、この12日間だけ形成される組織の中で、指導者の次に強いパワーを相対的に持つことになります。実際は単なる奉仕者その1なので、これといった実権はないのですが、与えられるタスクの性質と瞑想ホールでの物理的な位置関係から自動的にパワーが生まれます。おもしろい現象です。現実世界のパワーダイナミクスも大概こんなものですよね。

その一方で、トイレ掃除、ゴミ箱の管理、虫が出たら取ってあげる、生徒さんが何か必要だと言えば奔走するなど、普段の社会ノームであればパワーバランスが弱い立場の人がやる仕事も同時にやります。また、私のように初めて奉仕者を経験すると、長期滞在をしていて物事を熟知しているメンバーや過去の奉仕経験者にわからないことはすべて聞きます。私には知らないことが山のようにあります。さらに、瞑想に関しては全てを指導者の判断に任せるため、ほんとに小さなことでも自分で判断して受け答えることはタブーで、「先生にお聞きしてきます」と言って指示を仰ぎます。

補足ですが、組織のリーダー格の人たちは、こういう自分のロールやステータスが変わる体験をコンスタントにやって自己認識を刷新するのがいいのではないかなーと感じました。

このように幾種類もの役割、力関係の境界を行ったり来たりしながら、意識レベルも行ったり来たりしながら、自己対峙という繊細な作業を続ける26名の他人とコミュニケーションをとり、他の奉仕者たちと仕事を通じて日々チームビルディングをし、そして自分の瞑想修行をする。ハードコアでした。

そんなタフな12日間をめっちゃ楽しく過ごせたのは、奉仕者チームのメンバーのおかげ。はじめましてで出会ってすぐにチームとして動かなければならない中で、うまくいかない例は山と聞くのだけれど、私は本当にラッキーで全員素晴らしい人たちでした。クニちゃんも「こんなにも暇があれば休憩も取らずにキッチン(奉仕者の基地)に集まって一緒に時間を過ごすチームは珍しい。」と何度も嬉しそうに言っていました。みんな驚くほど仕事が速く、何よりも、どんなダーティージョブでも自然の法として受け入れ粛々とやりこなしてしまうのが尊敬。みんな旅人だったのも共通。ここでしか出会えない人たちばかりだったのに、ミラクルな結束力とチーム力でした。クニちゃん、太一くん、ともちゃん、きたくん、たかくん、和田さん、ようこちゃん、ありがとう!!!!

1年半経った東北にちょっとお邪魔して。

今回、私はゆうやんに連れられるまま、自らの目的は特になく東北に行った。これまで関わってきた陸前高田含めて、2012年9月現在の東北の土地に触れてみて、そこで何を感じるかでやれることが見えるだろうと思っていた。

そんなこともあり、東北滞在2日目の昼間は、たくさんの打ち合わせが詰まっていたゆうやんと別行動をすることにした。運よく、気仙沼にあるゲストハウスの管理人さん達が石巻まで南下するというので便乗させてもらった。ボランティアでも復興事業でも何でもなく、運転免許の試験を受けに行く宿のマネージャーに、運転手として付き添ってあげる管理人さんが、試験が終わるまで待ってる間に温泉に行くと言うのでついていったのだ。マネージャーは気仙沼で生まれ育った大学生。管理人さんは311後に気仙沼にずっといる外からの移住者だ。

一つのものが壊れた時、そこには否応なく新しいものが外から入ってくる。津波と地震で流された廃墟の後にはたくさんの種がまって雑草が元気良く生えていた。自然が直してくれているように見えた。流された自分の家の跡に人が集まれる素敵なカフェを違法建築だけど作って暮らしてる人がいた。自分の会社の敷地に残った建物を利用してゲストハウスを開こうと、旅館業のライセンスを取るために四苦八苦している人がいた。

こういう小さい生きる力が、新しい地域と文化を生み出す。地元の人たちから生まれてきている新しい動きと、外から流入してくる新しい動きが結ばれて種となり、今までとは違った生活の兆しが見え隠れしている。私たちはその変化に気付くことが重要で、そのためには「復興のために何ができるか」という形骸的な枠組みから考えたりせず、ただふらりと土地を訪ね、歩いてみることが必要だと感じた。

人の流動が暮らしを作る。そんなふらり旅の最中に「あ、この土地いいな」と恋に落ちる人が現れて、移り住んで何かを始める。そこにまた行き過ぎる人たちが集まっていく。

これは沿岸部だけじゃなく内陸部にも、さらには過疎など日本の田舎が持つ根源的な問題に通じてく、大切なエネルギーの循環なんじゃないかなぁ。

東北に移り住んだり通って復興支援をしようとすると、途方もないものものの集積に押し潰されそうになる。解決すべき問題は巨大かつ膨大で、無力感だけが残る。でも、私たちのような関東や西の人間が、東北に足繁く通うようになったことそのものがすでに大きな転換だ。311がなければ、このような人や情報や物資や思考の循環は東京と東北の間で起こり得なかっただろう。

だから、この波を絶やさないために、ちょっと立ち寄ってみたいと思わせる小さな文化の芽がそこかしこに生まれてくることが大事なのかもしれないと感じた。

芽はすでにあるので、その芽を見つけに行くこと。春には桜を、初夏には水芭蕉を見に行くように。

死は与えられるのだろうか?

宿の管理人さんの運転する車で眠りこけていて、起きたら崩れた校舎と、花に飾られた墓石が目の前にあった。なんとはなしに北上川沿いの道を河口に下っていってぶつかったのが大川小学校だった。60余名の子供の命が亡くなり、避難経路の確認や遺族からの訴訟が始まっているらしい。この立地ならば、もしすぐ隣の山に逃げていれば助かっていただろうに、という思いを拭い去ることはできないだろう。でも、生き物の生死に「もし」はない。死ぬのだ。否応なく。どのように死がもたらされるか、そこには私たちの力の入る余地はない。

先導した先生たちに、子供たちの死への責任はあるのか?ないのか?墜落した飛行機のパイロットに、乗客の死の責任はあるのか?ないのか?いじめを受けて自殺をした子をいじめていた人たちに、その子の死の責任はあるのか?ないのか?暴行殺人に及んだ犯罪者に、被害者の死の責任があるのか?ないのか?

闘病を必死にして死の準備をして死んでいく者と、突然交通事故で死ぬ者と、彼らの死には何か違いがあるだろうか。後者は本人が予期していず、無念だと感じながら死ぬかもしれない。それが問題なのだろうか。問題ではないのだろうか。前者の方が自分の死に責任をもっているのだろうか?いないのだろうか?

死は他者から与えられうるものなのか?
死は自ら選び取ることができるのか?
死の範囲とはなんだろうか?
あるいは、死の責任の範囲とはなんだろうか?

私の死は何によって与えられるのだろう。

2013年4月25日に。

ちょうど1ヶ月前の7月11日、天啓がくだり、2013年4月25日にベルリンへ渡ることを決めた。2008年の同日、私はアメリカを去り日本に戻ってきた。父親の命日の翌日のことだ。カリフォルニアの深夜に、日本の兄から父の訃報の電話を受け、錯乱状態の中、どうやって飛行機を取ったかはあまり覚えていない。成田に降り立った時、すでに「日本は3年」と決めていた。縁があってもう少し長く居ることになっているが、丸5年経過する来年の同じ日に、日本を離れることにした。

振り返れば、この4年間は父の死によって突き動かされてきた毎日だった。無慈悲と絶望を知り、あらゆる感情の極限を体験し、不信に苛まれ、己を責めた。3年が経過する頃、やっと崖から這い上がってきた感覚を得られるようになった。彼の死に様は28年生きた私を粉々にし、今の私の骨格を形成したと思う。

父はいくつか不思議なものを残していた。1つは死んだ時に持っていた財布の中身。生前、私と最後に会った日に行ったコーヒーショップのレシートが入っていた。物持ちがいいというか、何と言うか。もう1つは小説だ。病気になってから死ぬまでの1年半(実際に動けるようになってからなので最期の半年)で、10本ほどのフィクションと、6〜7本のエッセイを書き残している。エッセイは死後すぐに読んだが、小説にはなかなか手が付けられず、ずるずる時間は過ぎていった。今年に入って読む決心がつく出来事があったので、約4年振りにのろのろとフォルダを開くこととなった。

大学を卒業して間もなくアメリカに渡った私は、そのまま学生を続け、とうとう社会人になるかという間際に父は逝ったので、1人の人間としての彼と接する機会は一度としてないままだった。代わりに今、彼の小説を通して、彼という人間が何者かを学んでいる。

今月は、3月に他界したアメリカ時代の親友の新盆だ。出張がたまたま彼の実家のある奈良であったので、訪ねに行った。新盆特有の「臭い」が仏壇にはあって、2008年の夏を思い出した。彼が息を引き取る直前まで寝ていたベッドに寝泊まりした。部屋にはアメリカを急に去ることとなった私が彼にあげたスピーカーがあって驚いた。これまた物持ちのいい人だ。家には彼の気配がするとご両親が仰っていた。父が死んだ当時は、私が背負っていると言われたこともあったから、気配の話はなんとなくわかる。実際、翌朝、起きてベッドで座っていると、ドアをコンッとノックされた。「はい!」と返事をしたから、満足したんだと思う。

父も今ごろ、安曇野の家に戻ってくつろいでいるのだろうか。今年はお彼岸に会いに行く。その頃までには、すべての小説を読み終わっているかもしれない。

ツァラトゥストラはバルセロナでかく語りき

バルセロナでした買い物がタックスリファンドできるということでお店で書類を受け取って、空港で手続きするところで、税関のおやじがまじグランピーでムカつく奴でみっちりケンカした挙句、書類を破り捨ててきた。

そもそもタックスフリーいらない。手続き面倒くさいし、同じことやるはずなのに各国、各空港で手順が違い過ぎて紛らわしいし、こっちの国では税金払わなくていいけど、あっちの国では払ってね、みたいな国を境にした考え方がよくわからないー。私はタックスフリーの用紙を破り捨てたので、スペインに税金を払ったわけだけど、別にいいじゃんね。払うよ。誰か使ってください。

世の中ってお金がより多くある人に便利になってるよね。医療を考えると命も守りやすいし、クレジットカードが10万円限度と100万円限度と無制限は収入とか所属で決まって、限度額が低いほど、何か困ったことがあったら助けてもらえない。

カードが何かのエラー(海外行くとよくある)で急に使えなくなって、この場で今すぐ払わないと訴訟だと言われ、なんとか別の打開策を提案して問題解決したけど、クレジットカードはすっごい不便!って思った。

この頭くるやりとりをしながら、そもそもカード持てない人が世の中にはたくさんいるなぁと思い。それはお金があるかないかで決まるのだなーって。

クレジットカード持てない人と持てる人の間にある、命と徳の差はなんだ?

クレジットってそもそも信用だよね?信用じゃなくて疑いから成り立ってるじゃん。Doubt cardって名前変えた方がいいよ。

わたしには日本国民ですって意識は十分ある。それは私にとってすごく大事。でも、認識的文化的な部分だけあればいいのかもと思った。社会システムのための法や国籍については、もっとボーダレスにしていきたいな。

ドイツでは、self-employed ビザ保有者にペンションプランの税金を支払わせる法案が可決するかもしれないらしい。きっと老後はそこにいない外国人ビザ保有者が支払う多額の税金は、そんな何十年先の保険のためではなく、今の国家の金欠のために使われるわけで。

ロシア人の友達は、ドイツでツーリストビザを取るのさえありえないくらいのひどい対応と、システムと法の縛りに振り回されたって。でも彼女はアメリカでグリーンカード持ってて、ドイツでのビザ申請中にアメリカ国籍が取得できたから、その瞬間から、ドイツでの対応はガラリと変わった。どんな下らん奴でもアメリカ人ならウェルカム、ロシア人はファック。(これはドイツでの例ね。)

歴史的なものがあるからその条件反射もわからんでもないけどねー、とロシア人の友達w

国籍なんておかしなもんだよと、移民暮らしが長い仲間たちは言う。自分の国が崩壊したら、地球の人間界での存在権を確保するために国を移動して国籍を取る。

日本のために何かしたい気持ちは単純にあるけど、国のためなのかな?この島にあるものと、いる人と、培われてきたもののために何かしたいだけだよ。それがたまたまこの数千年は「国」って呼ばれてるけど。

各国で別々の国家や法や税金がないと機能しないという論点はもっともだ。いっしょくたにしたら、ゴチャゴチャになって、犯罪も増えるし、秩序なくなるよ。

でも実際、もはや機能してないよね??世の中見てみるとさ。

お金にまつわるしちめんどくさいことを連チャンで体験してすぐに、『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んだら、ツァラトゥストラはこう言ってた。

新しい価値の創造の自由を手に入れるために獅子となり、
新しい価値を生み出すために、無垢であり忘却であり遊戯である幼な子となる。

精神の支配者である竜はこう言う。
「汝なすべし」

精神の自由を求め、おのれの求める砂漠における支配者たらんとする獅子はこう返す。
「我は欲する」

私は砂漠を求める獅子であり、さらに新しいものを創り出す遊びを楽しむ幼な子なんだなー。

めっちゃ腑に落ちた。ニーチェ!

旅の終わりに思うこと

この痛みは、自己表現の欲求からくる痛み。

自分でありたいと願うことが、自分を痛ませている。

この痛みが消えたら、わたしはわたしじゃなくなるのか?

そんなことはない。

わたしをわたし為らしめているものを捨て去ったら、わたしはわたしでなくなるのか?

そんなことはない。

この痛みが消えても、わたしはわたしでありつづける。
今のわたしが大事にしてるものが失われることはない。

西洋心理学の言うアイデテンティティ(自己同一性)やエゴ(自我)を、人間精神の核として捉える見方の、さらに奥深くには、もっと違う世界が広がっていることを体感した。

わたしの存在を支えている核は、そこではない。

TED Prize City 2.0: A question worth asking from a Japanese national

This year’s TED Prize is not for a person but an idea: City 2.0.

At TEDxSummit in Doha, I shared “a question worth asking”, instead of an idea worth spreading, with the TED global community.

I have freaking no clue. No idea worth spreading… I simply wanted to toss my question to the world as Japan needs help devastatedly.

I and most of Japanese just do whatever they can right now. Even if we envision something for the better future in a positive manner and create strategies, everything is uncertain.

The issues in Japan truly throw a philosophical question to us.

“What do we live for?”

Is it really important to rebuild the city 2.0 or 3.0 whatsoever in the Tohoku region that will always be affected by tsunami and quake every hundreds years AND is being damaged by radiation? (note: as long as we live on this planet, natural threats occur to us anywhere in any cases. I believe each of us can choose where to live, from the coastal area to high mountains to the desert.)

Does it really matter to increase job opportunities and revitalize economy for us humans to live happily?

Isn’t there REALLY a way of living besides what we do now with money, education system, food chain, etc…?

Nevertheless, we do what we can do for Tohoku and our country, building new communities, inspiring each other, launching new projects.

That’s life. I’m optimistic, but facing the question.