スピリチュアル、マインドフルとやら。

スピリチュアルとは、現実を超越した身体や脳を飛び出すようなふんわり慈しみあふれる空間やビジュアル体験ではなく、しっかり現実と繋がって地に足に着いた、現実を落ち着いてクリアに観ることだ。

スピリチュアルとは、特別に瞑想したり祈ったり、あるいはシャーマニックな儀式をして恍惚となったり、現実から少し離れた体験をしたり、美しく麗しいニルバーナを体験したり、僧侶と敬虔な話をしたり、神的なものや形而上学的あるいは心理、情緒的な「神聖なもの」のイメージを頭に作ることではない。これは一つのレイヤー/段階に過ぎず、これらに限られるわけではない。

顔を洗うことも、お茶漬けを食べることも、自転車に乗って都会の風を受けることも、夜の帳でカモフラージュされた汚い川を眺めることも、スピリチュアルなの(なりうる)である。

スピリチュアルとは、スピリットとコミュニケートすることで、こう言うとえらく神妙だが、言い換えればスピリットのデータを受け取り解釈し役立てることだ。科学的に解明されたことはスピリチュアルではない、というのも幻想だと思う。

スピリチュアルとはまず、自己内のスピリットを感じること。血流、汗、心臓の脈、胃液や唾液や色んな体液の分泌、眼球の動き、鼻から気管を通る呼吸、脳みその動き、筋肉を動かす信号の流れを身体で感じること。これは水や風や土や火のエレメント=スピリットだ。体液や血は水分だし、筋繊維は土、体温は火だ。温水で床暖房と同じだ。

マインドフルネスとは、他人に深い気遣いができたり関係性が複雑化する大勢の人間とのコミュニケーションに良い方策がとれる=エモーショナルインテリジェンスが高いことや、瞑想で1時間座ってられること(だけ)ではない。すべてにマインドが行き渡っている、つまりaware and alarted、意識が覚醒してる状態で、身体内外のエレメントが持つスピリットを、信頼できるデータとして取り扱えることだと思う。

そうすると、目の前の空気や仕事してる机や鉄筋建物や公園の木や水道水のエレメントもわかるようになって、スピリットと交信(データ解析)できるようになる。風の妖精と吹き出しつきで話したりはしない。話したい人は話してもいいんだけど、コミュニケーションの形はそれだけとは限らない。

だから大自然や田舎に行かないと、あるいは古代の教えを学ばないとスピリチュアルな生活ができないというのは真ではない。どんな汚いところにもスピリットはある。自分が生きてる限りは。なぜなら自分の肉体、血潮が第一のスピリットだからだ。別に神木を拝まなければいけないわけではない。もちろん、聖なる場所や圧倒的大自然のスピリットは絶大でエレメントに溢れてるし、視覚的にも最高の美なので、たくさんのエネルギーがもらえるけれど、逆に、もし常に自分のスピリットをモニタリングできて、毎分毎秒スピリチュアルな感覚が作動してれば、そういう場所に行った時の体験はまったく想像を絶するものとなる。圧倒されるのではなくすんなり一部になるのである。

とは言うものの、ここに辿り着くまでには練習が必要だから、昔の知恵に頼ったり、瞑想したり儀式したりおかしなポーズをしたりトランスして踊ったり文言唱えたり色々する。要は、それが終点だと勘違いしないことが大事。

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