duzen oder siezen?

日本語って根本が上下のパワーダイナミクスを作るbeggingな性質で文書作るのが大変。。。英語だとわっしょい一緒にやろうぜ的な煽り文句が書けるし、ドイツ語だとお互いの立場をフラットに明確に定義できる。

「スタートアップ」「ジョイントベンチャー」「バッカーコミュニティ」のマインドに、言語的についていけないというそもそもなOuch。言語がついていけないってのは、そりゃ〜ディープな問題です。伝えたい主張/スタンスが翻訳した時に喪失するんだから。

ドイツ語にも敬語的なものがあります。フランス語にもあります。「あなた、君」を指す Sie/du (D), Vous/tu (F) を使い分けます。主格名詞によって動詞は変化するから、敬語と親しい間柄の言葉で動詞の形が変わります。

どんな状況でどんな相手にSieを使うべきか、duでいいのかの判断力はコミュニケーション上、重要です。でも「duzen でいこう。」と合意すればswitchは割と簡単。なぜなら主語をduに変えれば動詞は自動的にduの活用に倣うから。

日本語の敬語はそうはいきません。「じゃ、タメ口で!」と言ったところで、呼称を苗字から名前に変えるのか、「さん」から「ちゃん」やあだ名にするのか、「です・ます」を取るのか、尊敬語や謙譲語をやめて丁寧語にするのか、話者同士の相対関係で決まる上に、心理戦も働く文法構造故にパターンは無限大。そう、心理戦がシマンテック(意味論)だけではなくグラマー(文法)に何層にも渡ってはびこっている。どの言語もそうだろうけど、日本語の重厚感は飛び抜けていると思う。

TEDxTokyo yzコミュニティでは、ある組織文化を醸成するために、年齢、社会的立場、知り合った年月の長さに関わらずファーストネームで呼び合うというグラウンドルールを創設当時からやっています。これは狙いが当たったというか予想以上の効果で、生み出したかった文化を育くむのに大きな役割を果たしています。単純に言うと、日本語文化圏にはないプロトコルを日本語コミュニケーション内に導入しました。

言語が組織文化、グループダイナミクスに与える影響は絶大なのだ。大概、私たちは言語でコミュニケーションするからね。だから「こういうワークショップメソッドがある」「こういうブレストテクニックがある」「こういう状況を作るとオープン&フラットになる」という方法論だけでなく、より根源的なマインド&行動を支配しているメディア、つまり言語=日本語の使い方にクローズアップしてみると興味深いし、やり方によっては非常に簡単かつ効果マックスな結果が得られます。

Psycholinguisticな日本語とドイツ語の話

9月より本格的にドイツ語に力を注いでいます。ヨーロッパでは土地柄、他/多言語を学ぶのは当たり前。カフェでよくタンデムを見かけます。違う母国語同士の人がペアになってお互いの言語を教え合うこと。私もドイツ人の友達とタンデム始めたよ。彼は日本語の他にスウェーデン語、フランス語、ヘブライ語も勉強中。驚異的だよねw

ヨーロッパには言語習得の難易度を表す「桃栗3年柿8年」のようなフレーズがあるらしい。誰かが単に言ってただけかもしれないけど。なんだったっけな。「イタリア語1年、フランス語3年、ドイツ語30年」だったような気がする。それに、こんな映像が作られちゃうくらい、ドイツ語はヨーロッパである意味「ネタ」な言語の様子。

How German sounds compared to other languages

日々ドイツ語が耳に入れば集中して耳を傾けて、機会があればドイツ語を話すように心がけます。ベルリンは名実共にな国際都市だから、かなりの確率で英語が通じる。ベルリンに3、4年住んでるけれどまったくドイツ語話せませんって人は山ほどいるみたい。それでも生きていけるくらいドイツ人の英語習熟度が高いのと、外国人の比率が高い街なのだ。引っ越して間もないこともあって、まだまだドイツ人友達の数が少ないしねー。だから隙あらばドイツ語を聞き、話そうと意識を高く持っておかないと、ドイツにいるのに案外触れる機会は少ないのです。

必死にドイツ語の音をピックアップし、文法を学んでは実際に話したり書いているうちに、第1言語、第2言語に影響を及ぼし始めてるなーとここ数日で気づきました。例えば、ドイツ語では名詞の先頭を必ずキャピタルレターにします。英語では文頭と固有名詞だけキャピタルにすればいいんだけど、気づかぬうちに英語でもすべての名詞の最初をキャピタルで書いてしまっていたり。

ドイツ語でもう一つ特徴なのが動詞の位置。基本的な文章では動詞が2番目にきます。「セカンドポジション」「セカンドアイディア」などと言われるルール。そのかわり、文章の先頭は常に主語じゃなくてもいいし、2番目に動詞を持ってきたら、その後に続く単語はそこそこの自由度で並べ替えが可能(いちよう大まかな法則はある)。これを無意識のうちに英語にも適用し始めちゃってるみたい。英語を書いてると頭の中で二つの言語の文構造が交わり始めて、まるで靄がかかったような視覚的に不透明な感覚に陥って、どこに動詞を置いたらいいか、どこに強調の副詞や否定語を挿入すればいいか、だんだんよくわからなくなって、ほんの一瞬なんだけど手が止まる現象を体験しています。目では自分が打っている英語を見てるのに、目から得た情報を処理する脳みそ側がドイツ語で行われてるというか。

英語とドイツ語はアルファベットがほぼ同じだし文法が似ているから、混同する現象が起こるのは理解しやすい。だけど、同じような認知上の「ズレ」が日本語にも起き始めているんだよね。びっくり。日本語の文章を読んでいるのに、「なんだこれは?何を言いたいのかよくわからないぞ。」と首をひねってしまう。「単にわかりにくい日本語なんじゃない?」という突っ込みがあるだろうけど、私が体験しているのはちょっと違うもの。「そんな日本語じゃ何言ってるかわからん!」ってなつまらない講演や、長々と書かれた的を得ない意見のようで意見じゃない文章(よくあるねw)に対する、「わからんよー」という反応は、意味論(シマンテック)や運用法(プラグマティクス)の範疇。でも、私が日本語に対して抱き始めている違和感現象は、文章構造を作りだす法則=統語論(シンタックス)の範疇。言語を司る脳みそのどこかで、何かしらの変化が起きてるみたいなんだよね。英語と同じことが起きてるのだとしたら、恐らく、日本語の文章を読んでいる(視覚情報として日本語が入ってくる)にもかかわらず、それを処理する脳内プロセッサーはドイツ語設定、ということだ。これによって何が起きるかというと、まず、さっき英語について書いたような視覚的なぼやーっとした感じになる。日本語の文章が融解/分離していくような。文章が文章としてとどまってないというか。パソコンの画面に映る日本語が少し遠く感じるというか。なんだろう。うーん、新しい体験だから的確に文字で描写できないねぇ。とにかく、視覚的なぼんやりした感じが脳内に広まり、そうすると意味もよくわからなくなってきて、浮かんでくる質問は

「この部分の行為者は一体誰?」

「この文章の行為の受け手は一体誰?」

「この部分は何を対象にして、誰に向けて、何の話をしてるの?」

「これって結局誰のことを指してるの?」

曖昧模糊とした文字の羅列に頭がついていけなくなっていくの。簡単にざっくり言ってしまうと、各文章の主格と目的格、そして文全体の意図(誰が誰に向けて、何について話しているのか)を語彙表現ではなく、文構造(シンタックス)の内に明瞭に見いだそうとしているのだ。これはとてもドイツ語的。

もう一つ特筆すべきは、第3言語の介入による第1言語、第2言語の遊離現象は、今のところライティングとリーディングで起きてる。スピーキングとリスニングでは起きてない。目の運動と目からの情報と手の運動。そして、口の運動と耳からの情報。これらに関連性があるのかしら。

第3言語を習得し始めたことによって、過去に学んだもののすっかり忘却の彼方だったフランス語やスペイン語が急に口をついて出たり。

言語と脳の関係っていつでもfascinating。