意識のスペクトラム

という言葉はずいぶん昔にケン・ウィルバーの本で初めて知った。瞑想中に何が起こっているかというと、この意識のスペクトラムを行ったり来たりしているのだと思う。

これまで生きてきた過程で経験したこと、その時に沸き上がってきた感情の数々。記憶は脳に刻まれるように体にも刻まれる。通常は脳から指令がいって体が動くのだが、瞑想中は、身体から脳をアクティベートしているよう。脳と体のインタラクションが精緻になっていくにつれ、意識は明瞭ながらも揺らぎ、スペクトラムの深みへ深みへと降りていく。鮮明な視覚的聴覚的な記憶と共に、感情的なものや体の感覚が蘇ってくる。さながら退行催眠をしているように、唐突に無秩序に過去の記憶がフラッシュバックする。

そうしていると、「わたしの過去はこれこれこうだったから今こうなんだ」という精神分析学的な問題把握と解決が起きるし、「こういう状況に陥るとわたしはこれこれこう反応してしまうからああしよう」という認知行動学的な問題把握と解決も起きるし、「今のわたしはこう感じているのだからこうしてあげよう」というゲシュタルト療法的な問題把握と解決も起きる。多様な意識レベルを浮遊する。

しかし、最終的に行き着くところは、過去にフォーカスすることでも、原因(過去)と結果(未来)のメカニズムにフォーカスすることでも、今だけにフォーカスすることでもないのだ。

体の感覚を細部まで観察していると、最初は表面の皮膚しか知覚できないが、そのうち体内にある筋肉、骨、臓器、そして脳みそを知覚できるようになってくる。継続すると視点はさらにズームインされていき、血管内の血の巡りや、筋肉を組成する組織(tissues)にまで及び、細分化のプロセスは終りがない。不思議なのは、感覚がミクロになればなるほど体の各パーツに意識が向いてしまい断片的な現状把握になるかと思いきや、逆に身体全体が1つの何の隔たりもないものとして感じられるようになってくること。

金属板でも入ってるのかと思うように凝り固まってしまった体のさまざまな部位。それに対して凝った、痛いと反射的に反応してしまうと、それは岩のように厳然と立ちはだかる。しかし、どんなに堅くて微動だにしないものも、ミクロレベルでは躍動する粒子でできていのだということが感じられるようになってきた。動かぬものの内部には無数のダイナミズムが潜んでいる。そこを突く。そこに入っていく。そうすると、鉄板のようだった凝り固まりが、繻子のリボンのように解けていく。

大きな塊として知覚していたものが、じょじょに小さくなっていき、さらに細かくなり、ついには粒子の波のようになる。この身体レベルでの現実認知の変化は、上記の心理学的な現実認知と呼応していると思う。現在、未来、過去といった時間軸による経験と意識の蓄積が、じょじょに不可逆的な時間の理解を越え、過去、現在、未来といった隔たりはなくなり、ついには時間感覚は空間が混ざった波となる。

身体を流れるエネルギーは時間を超越しているのだ。

 

 

モチベーションの話。コミュニケーションの話。

組織のリーダーとなったり、中間管理職的だったり、コンサルタント的だったり、契約社員的だったり、アドバイザー的だったり、様々な立ち位置を経験する中でも、私の主な役割は、

(その時に)属している組織が、信頼溢れるコミュニケーションを結びながら、遊び心豊かなアウトプットを、実践的効果的に出すこと

なんじゃないかと思う。

その際、私は「モチベーション」という要素について殊更考えたり取り組んだことがない。

モチベーションは副産物であって、働きかける対象ではない気がする。私たちはいつでも100%フルパワーではいられないし、いる必要がない。ダラダラしたい時もあるし、イライラしちゃう時もある。それを「モチベーションが上がった下がった」という定規で測って、「そら、今数値が下がってきてるから上げよう!」と賞与システムやら福利厚生やら、コーチングやら、あの手この手でモチベーションメーターをぎゅんぎゅん人力で上げようとすることはエネルギーの浪費かもしれない。「上がんないもんは上がんないっすよ。先輩。」なのである。しかも、「モチベーションって一体なんなんっすか?俺はうまい飯を食べたいっす。」なのである。

モチベーションという1つの項目があるのではなく、モチベーションは1人の人間を構成する複数の要素の期待値の総和、みたいなもんじゃなかろうか。となれば、horizontalな見方をしないとモチベーションは語れない。

それよりも、常に色んなメーターが上がったり下がったりしている人間が寄り集まった時に、全体としてまるっとスムーズに流れる容れ物(組織)を作っていく方がいいんだろうな、というのが経験知。だからこそ、寄り集まる意味があるんでしょ!誰かが下がって前線を退いたら、他のメンバーがカバーしていく。その間にモチベーション下がっちゃったメンバーはエネルギーチャージしてもらう。

あと、モチベーションは私たちの夢や方向性とリンクしているので、モチベーションが下がったということは、もしかしたら、もうその組織に属している根本的な意味が薄れていっているのかもしれない。そういう人のモチベーションを上げようとしたところで、双方にとってプラスはあまりない。その人が次のステップへ向かえるような、別の形のサポートをするのがいいと思う。

モチベーションを間接的に上げていくために必要なのは、自分とそれぞれメンバーとの信頼関係構築に尽きる。でも、他人とばっかり信頼を築こうとしても、その橋は一生出来上がらない。まず最初に、自分自身を受け入れ(愛し)、自信を持ち、信頼してあげること。なぜならば、私たちは自分の中で認められないこと、弱み、自信のないことを、他者にも投影してコミュニケーションするから。勝手に「そうだと」思い込んだ言動が積み重なり、複雑化していく。

他者とのコミュニケーションは、自己とのミスコミュニケーションの延長線上。

だから、自分への愛と信頼に基づいた、他者への愛情と信頼のコミュニケーションが大事となる。

毎日の積み重ねのコミュニケーションプロセスがあれば、その人のニーズがわかり、SWOT分析ができ、キャリアプランニングも見えて来るし、実践的なパフォーマンスも上がる。その背後では、モチベーションという横断的なものがぶわーっと上がっているのだろう。

さらに、各メンバーの強み弱み、性格、好き嫌いがわかると、どんな役割についてもらい、どんな人とチームを作ってもらい、全体としてどんな組織にしていくかが視覚化できるようになる。良い塩梅の組織構造ができると、体臭のような組織文化は自ずと良いものに醸成されていくので、よってモチベーションもまた上がる。

キーワードは「触れる」

2011年。

また1つ新しい年を迎えました。どうぞよろしくお願いいたします。

2月は旧暦新年、4月は年度の始め、7月末はマヤ暦の始め、9月はアメリカでの年度始めなので気持ちを新たにする時期って一年に何度もあるんだけど、西暦の1月1日は世界中の多くの地域で共有しているものだし、小さい頃から馴染んでいるから大事な習わしだなぁ。

私は1979年11月生まれなので数えで33歳になりました。(生まれた時点で1歳で、1980年1月1日ですぐ2歳になるから。)本厄、しかも大厄なるものらしい。厄に科学的な根拠はないと言うけれど、「だいたいこの年齢になると体にガタが来るのよね〜。」という事実の観察に基づいた東洋的統計学なのだと思う。「いや、データなんてとってないけどさ、だってそうじゃん?」というような。人間の自然な成長(=老い)や、社会的立場の変化が影響して、多くの人が心身の変化を経験するのだと。なので、大厄だからと恐れるのではなく、暴風波浪警報的に受け取っていきます。気をつけはするけど毎日びくびく過ごせないし、どんなに事前に対策取ってても結局来ちゃったらそれまでだもんね、ははは。

去年は気や血の巡りが悪かったのかたまに体調が下り坂になったものの、風邪など目立った病気には一度もかからず元気に過ごせたので、今年はもうワンランクアップ元気にいきたいと思います。

今年はCommuniation Process Designerって何なの?ってところの、2009年、2010年でまだ出してなかった引き出しをジャカジャカ開けていければなぁ。私の頭の中ではいい感じにCommunication Process Designerモデルが構築されてきてる。だけど、多面的ポリゴンだし聴覚的でもあるし、何より直観的(五感ですらない)なので、どうやって現実世界(他者がいるところ)に表出させるかがチャレンジ。そのためには言語化が必要になってくるのだよー。言語って言うと文字だけになっちゃうから、記号化、かな。絵や色や音も含まれる。建築士が頭の中にある建造物のイメージを設計図に落とし込むように、「自分」という設計図を引いていくことによって他者に伝えて行く。製図するために色んな術(the art)を習得する。それがコミュニケーション。

話し言葉のコミュニケーション、文字のコミュニケーション、色のコミュニケーション、形のコミュニケーション、音のコミュニケーション、間(ま)のコミュニケーション、身体のコミュニケーション、心のコミュニケーション、魂のコミュニケーション。

自分と誰かのコミュニケーション、文化/社会/経済組織におけるコミュニケーション、自分自身とのコミュニケーション、対面でのコミュニケーション、時空間あるいはアイデンティティをまたいだバーチャルコミュニケーション、民族文化や言語を越えたコミュニケーション。

人とのコミュニケーション、他の動物とのコミュニケーション、植物とのコミュニケーション、土や空気や水や光とのコミュニケーション、星や月や太陽とのコミュニケーション。

この文脈でコミュニケーションを日本語に直すと「触れる」かもしれない。「繋がり」ではない。すでに繋がってるから。繋がってるものものに「直接(もしくは比喩的にか)触れる」ことが私の中では大事。

さらに、Communication Process Designerとして、新しい組織論の実験、新しい経済モデルの実験(現行の経済学ではすでに語れないもの)を試みるための土台を創っている最中なのだけれども、ってことはCommuniation Process Designerというプロフェッショナルを育て、根付かせていくためには、これまでのビジネスで必要/有効であったセールス術、交渉術、ブランディング力、マーケティング力、戦略などは一切関係ないのだ、という至極単純当然なことに今朝の瞑想で気づきました。オペレートしている理論が違う(パラダイムが違う)わけだからね。

西洋哲学、心理学、そこから派生する組織心理学に魅了され、学び、実践してきているので、たまーーーーに「心理学はほにゃほにゃだから、それを使っている君は結局うんぬんかんぬん。」と批判を受けることもあるのだけど、私は心理学が醸成された土地柄とは根本的に違った「日本という世界観」から生まれてきているので、私なりの西洋心理学〜組織論の解釈+応用にしかならない。私がいいと思ってる組織心理学の部分しか使ってないしね(笑)。実際、大学院で行き着いた研究は、組織論の根源である機能主義を完全にひっくりかえすような、東洋/日本人的視点+ラディカルヒューマニズム(機能主義と対置されるパラダイムの1つ)から組織論を組み立て直すとか、西洋と東洋という二項対立からではすでに語れない「井口奈保」という視座を徹底的に素因数分解しながらオリジナルの組織論はどこに向かうのか試してみるという論文だったりする。

新年から話はまとまらないわけだが。。。

Communication Process Designer というものは、私の生き様そのものがブランディングになりセールスになり付加価値になること、なのかもしれないな。うむ。

ある意味アンパンマン。「僕の顔をお食べ!」

違うか。

もう1つ最近思ったのが、Communicationを多角的に捉えていく仕事だからこそ、結婚しても産休とっても「現場から退いてブランクができる」心配がまたーくないどころか、パートナーとの人間関係構築、愛情の育み方、出産、育児は究極の修行の場であり、コミュニケーション力に磨きがかかる絶好の機会でラッキー♪

今年も I will BE Communication Process Designer!

「どうしてそれをやろうと思ったんですか?」

コミュニケーション・プロセス・デザイナーというものをやってます。

え?

他に同じようなことやってる人ですか?

私が勝手に作ったものなのでわかりません。

え?

ああ、ロールモデルとか、過去にこれっていう出来事とかないんですよね。

好きなことをずっとやってきたらこうなったって感じです。

私の仕事の話をすると、大抵こういった会話がなされる。そして必ず訊かれるのが

「どうしてそれをやろうと思ったんですか?」

ロールモデルはいない(尊敬する師匠、先輩はいるけど「この人みたいになりたい」と目指す存在はいない)。特別衝撃を与えたような出来事もない。育った環境もごく平凡。それじゃあ、今やっていることに私を導いたものって何なのか、興味を持つみたい。

組織心理学用語で説明すると、私の場合は intrinsic motivation の方が圧倒的に強い。内的動機と言うのかな。外的な要因 (extrinsic motivation) からではなく、自分の内から湧き出る想いに突き動かされること。外部から受けた影響は、自分の好きなこと、やりたい方向、思い描いているビジョンを確証し、後押ししてくれる副次的なものだなぁ。

じゃあ、intrinsic motivation の核たるものは何なんだろう?何度も自分の考えを言葉にしていく中で、明確になってきたものがあった。

まず根源にあるのは、人間という生き物への探究心。人それぞれの思考、感情、行動に興味があるのはもちろん。でもそれより、普遍的に人間って動物がどんなものなのか知りたい。探求するために最初に出会った具体的な方法論は心理学だった。心理学にのめり込んでいくうちに、この学問と自分が生まれ持った気質と能力がとてもよくフィットしていると実感し、自分の極めるべきは心理学だ!と直観。

精神分析学や精神力動学といった臨床心理学から始まった旅だけれども、人間の深層心理の病を治すというアプローチより、健康な人が健全な生を営むために確立された「第3の心理学」「人間性心理学」と呼ばれるものに可能性を見出すようになった。そこからさらに実際性を重視して、応用心理学の1つである「組織心理学」を修めることにした。

組織というのは一般的に、人が2人以上集まったものを言います(私は、人間個人も組織体という前提で組織心理学を学んできてるけど)。だからその射程範囲は無限大。長期的に機能していく(と考えられている)会社や学校だけが組織じゃない。カップルも組織だし家族も組織。一時的なグループも組織だし国家も組織。国連やEUのような国境をまたいだものも組織。人間は群れを作る習性のある動物なので、必ず組織は生まれる、と私は考えてます。

もう1つ、コミュニケーション・プロセス・デザイナーに辿り着くには不可欠な世界観がある。それは

「人間の活動はすべてコミュニケーションに集約される」

というもの。人は生まれる前の母体にいる時からコミュニケーションしてます。1歳頃から言葉を覚え、寝ても覚めても言語を巧みに操って夢を見たり、好きな子のこと考えたリ、勉強したり、商談を取り付けたり、新しい料理のメニューを考えたり。

集団を形成してコミュニケーションをしながら生きていく動物、人間。

これが私の世界観の枠組み。

そう、人間って動物なんだよ。

なのに、どうして生命維持活動である「食べる」行為をするために、やれ会社に行ってお金を稼いで銀行からお金を引き出してお店に行って食材を買わないといけないのだろう?他の動物はこんな複雑なことしてないのに。

どうして温かい場所で眠るという生命維持活動をするために、家を探して保証人を見つけて収入証明を提出して審査されて、、、って複雑な行程を経てからじゃないとダメなの?断られる危険性もあるってなんで?生きるためには温かいシェルターが必要なんだよ。

一夫一婦制って本当に人間という動物にあっているシステムなの?

国という組織体は人間が幸福に生きていくために適切なシステムなの?

こんなに複雑なプロセスを経なければ、いのちを支えていくことができないなんて、なんか回りくどくないか???

「じゃあ田舎に行って電気を使わずにすべてを自給自足で暮らします」と言うには私の脳内はinfectedされてるからw、原始に回帰するのではなく、現在の環境を踏まえた上での人間の次の進化の行く先にすごーーく興味があります。

資本主義の次の経済理論は何?

国家という形ではない新たな集団組織は一体どんななの?

既存の会社組織を中心とした働き方じゃない、もっと動物「人間」のいのちを育む働き方ってないの?

そもそも働かないと生きていけないって大前提を疑ってるし。誰が決めたのーー。

お金以外での交換システム(つまり契約に拠らない)だって機能するはず。

今ある恋愛の仕方や家族形成の仕方とは異なる方法でのライフスタイルってどんな風にデザインしていけるかな?

社会が生み出す決まりやタブーって、どこまでが人間存在に必須なの?セクシャリティーが罪や恥の対象になってるのって、社会文化的な人的操作が入ってやしない?

などなどなど。

こーゆーのを実験しているのが、コミュニケーション・プロセス・デザイナー。

報告:ゲストスピーカー出演@ダイアログBar

すっかり報告が遅れてしまいましたが、ゲストスピーカーとしてお招きいただいた先週火曜日のダイアログBar。表参道のカフェ、シナグロで行ない、平日ながら濃密な夜をデザインすることができました。ご来場くださった皆様、スタッフとしてサポートしてくれた皆様、企画してくれたダイアログBar主催の西村くん、お店の皆様、twitterのTLを追ってくれたり、Ustreamで見ていてくれた皆様、どうもありがとうございました!!!!!

雪がチラつく極寒の中、定員の40名の方々が足を運んでくださいました。大学生、20〜30代の同世代の企業人、NPOの方、学校の先生、奥様、フリーランスや起業家の方、さらにはビジネスと社会のいろはを熟知なさっているシニアレベルの方々まで、色とりどりのオーディエンス。

photo by Hiroaki Yamane

事前にある程度の流れを西村くんと決めてはいたものの、参加者の人たちとの行き当たりばったりな会話を楽しみたかったので、別途でQ&Aセッションを設けることはせず、いつでもジャンプインOK、好きなように会場内を歩き回ってもいいよ、という形にしました。

そうしたら予想外の展開。若手からのキャリア開発やフリーランスで仕事をすることについての質問が多くなるかなーと思いきや、そこに話が到達する前に「組織心理学」「組織開発」といったキーワードにぐっときた人たちが思った以上に多く。自分よりキャリアが何十倍もあるような方、特に男性陣からの質問が活発に続きました。たじたじになりながらも、内心とっても嬉しかったです。名もなきスタートアップの私の話に真剣に耳を傾け、新しいものを得ようとする姿勢に、心の底から感謝するばかりです。

参加者と会話しながら進める「自由型」トークショーは先がまったく読めません。時間との兼ね合いと、当初から用意していたプログラムと、会場の雰囲気を見ながら、次にどういった展開にするかを即興で決めていく西村くんと私。こうやってライブでプロセスをデザインしていく感覚が本当に好きだし、自分に合っているなぁと感じました。

photo by Hiroaki Yamane

あっという間に最初の1時間は過ぎ行き、会場は言葉になったりならなかったりな思考の渦で満たされてきました。そこで、ワールドカフェに入る前に簡単なアクティビティをしてもらい、私の仕事のコンセプトでもある “Visualize Your Thinking Process” とはどういうことかを体感してもらうことにしました。

私の仕事である “Communication Process Design”とは、私がつねに大事にしている3つのキーワード、コミュニケーションとプロセスとデザインをくっつけたもの。というわけで、参加者の方にも同じようにやってもらいました。質問は、

「自分がどんな場面においても大切にしていることを3つ選び、言葉にし、さらにそれを何でもいいから形で表したあとに、その3つの重要度や関係性を色、大きさ、それぞれの位置関係で紙の上に示して下さい」

◯や△や◆や→にとどまらず、みなさんいい調子に好き勝手、自由気ままに描いてくれました。上記のような言葉による説明をどう解釈するかも、受け止める側それぞれなのがよーくわかります。

Photo by Hiroaki Yamane

このアクティビティをしている最中(プロセス)にどう感じたかを何人かの人たちに発表していただき、それを私がグラフィックファシリテーションしていきました。

Photo by Hiroaki Yamane

宴もたけなわ。〆で、

「言葉以外の方法で表現することによって何が生まれるでしょう?」

という質問をもとに、ワールドカフェを2ラウンド。普段の生活であれば出会うことのないであろう人たちが、机を囲み、頭を突き合わせ、脳みその中や胸の内に貯まっていたものの、ちょっと置き去りにされがちなものものを、言葉や色や絵で再構築していく。濃厚。

今回は、アメリカで出会い、日本で再会した友人で映像制作のプロであるSOくんがビデオ撮影を買って出てくれたので、3時間の様子が5分にまとめられております。こんなに手を動かしてしゃべっているとは知らなかった(笑)。

トレーナーとして、プレセンテーターとして、ファシリテーターとして、通訳として、人前で話すことが仕事のようなものですが、トークショーのゲストというのは、またひと味もふた味も違うもので。このビデオを教訓に精進しまっす。

それから、私の現在進行形のプロジェクトや将来のビジョンをもっと知りたい!という声をいただきましたので、また機会を見て、そちらにフォーカスしたイベントを企画しようかな〜と思案中。プロジェクトを6つも7つもお手玉状態なので、それぞれを切り口に違った場を創っていくのもありかな。グラフィック・ファシリテーション講座もやろう。

最後に、ブログに様子を掲載してくださった方々。多謝!!!

組織論 再考 Organization is to die.

最初のエントリーはどんな内容にしようかいくつか迷ったけれど、私の専門「組織心理学」の大黒柱とでも言うべきOragnizaion Theoryについて院生時代から考えていたことを記してみまふ。

昨年、twitterで組織論に関する考察をツダったのでまずはそれを紹介。

  • 新しい組織論を構築する上で、その上位部分を形成する経済理論を見直すことは不可欠。院生時代に資本主義の次のイデオロギーを考えてる学者はいないか尋ねたら、教授はコミュニズムから資本主義 をスキップして次にいこうとしている中国の経済学者はマルクスを読み直していると言っていた。中国語わかる組織論、組織心理学やってる人いないかねぇ。
  • 「経済成長をしなければならない」という命題は真なのか?この前提から考え直さねばならない。これは「組織は拡大成長し続けなければならない」という前提も同様だ。

これらの発言の裏にある私の問題提起は「現行の組織論への違和感」。組織論の根底には「機能主義」というパラダイムが脈々と流れています。例えば18、9世紀の哲学者、コント、カント、ヘーゲル、ディルタイ、ミード、ウェーバーなど。

機能主義というのは、「社会」という箱のなかで、人間が起こす多様な事象がパズルのピースのようにかちっとはまって相互に影響し合ってる様や、どんな風に個々のパズルピースとしての役割を担っているかを分析するもの。

別の言い方をすると、社会ってのは人間が客観的に捉えられるもの、「外」に「対象物」としてれっきとしてドーーーンと存在しているよね、という世界観。禅仏教や脱構築などとは鮮やかなコントラストを奏でる理論。

組織心理学の前身である「サイエンティフィック・マネージメント」の祖と言われるフレデリック・テイラーは、1つの製品を作り上げるための様々な行程作業を緻密に分析し、以前は統一されていなかった労働者の仕事に作業内容、労働時間、クオリティーなどの標準を設定し、上から管理することによって作業効率をあげていくというシステムを導入しました。

機能主義に根ざした組織論の大前提は「組織というのは時間と共に拡大し、また、競争の中で生き延びていかなければならない」。これは組織論ができた資本主義最盛期の20世紀は有効な価値観だったでしょう。でも、今、実際に世の中で起こっていることは、チームベース/プロジェクトベースの仕事の仕方だったり、テクノロジーを駆使して地理的/時間的距離を縮め、国や文化を越えたところでビジネスが生まれていたり、ソーシャルメディアの躍進による個人の台頭であったりで、これまでの巨大な組織がその目的遂行のために集団を管理していくという形からは離れていっており、より多くの点が線で縦横無尽に結ばれていくネットワーク型の組織体系が増えつつあります。成功例かどうかはまだ実験段階でわかりませんが、EUだってその例。国家のボーダーを越えて経済的、社会的リソースを運搬、共有し合っている。

チームベース/プロジェクトベースの働き方という点で言えば、プロジェクトが終わったら契約は終わり、そのチームは解散、自分の仕事も終わります。つまり、半永久的に規模を拡大し生き残っていかなければならないという、組織論がこれまで疑問視してこなかった命題は揺らぎ始めている。

そこで私がでっち上げた新しい組織論は「組織は死んでもいい」。別に社員数が数百人、数千人にならなくたって、店舗数増やさなくたって、自社ビル持たなくたって、上場しなくたって、目的が終わったら「会社は今日で終了です!」とか言っちゃう企業ができてもいいじゃないか。