道理で山奥に籠るわけだ

インドから帰ってきて1ヶ月半。ブログのネタは山ほどあれど、整理しながら文字化するまでには至らず。それができるようになるまでは、ストーリーテリングすることにします。声に出して語り聞かせることの力。文章化する力に弾みをつけてくれる。

今日はヴィパッサナ瞑想についての気付きメモ。

3月2日より10日間、ヒマラヤの麓で行なったヴィパッサナ瞑想が私に与えた影響は眼を見張るものがある。静和尚と一緒に毎月3時間ヴィパッサナをしていたリードタイムが土台となっていることは言うまでもない。あの2年間があればこそ、最初の10日間でこれだけのインパクトがあったのだと思う。センターを出てからも、ほぼ毎日続けている。

身体の一瞬一瞬の状態、諸行無常を物理的に観察する修練をするのがヴィパッサナ。これまで何年も体の奥で眠っていて無感覚になっていたものものが見事に顕在化し、単なる疲労感、倦怠感、凝り、原因不明の体調不良として知覚するのではなく、明確な痛みとして表れてくる。

とにかく痛い。激しく痛い。

インドでは、生まれつき悪かった股関節とそれに付随して負荷がかかっている骨盤、腰、さらにそれらの近くにある腸や子宮といった内蔵器官と向き合い、眼に見える肉体改造が起こった。(今でも続いている。)日本に帰国してからは、ここ5年ほど悩まされている左胸と左の肩甲骨周りの背中の凝り固まりに焦点が移っている。

一昨日から、いよいよ左胸、左背部の痛みが意識化に上がってきた。これだけ広範囲な鋭くじりじり刺すような痛みを、今まで単なる鈍い凝りとしか感じられなかったのが恐ろしくもある。体は毎日を乗り切るために耐性をつけ、異常な状態に慣れていくのだ。

しかし、ヴィパッサナ瞑想は身体/精神にメスを入れる「手術」とも比喩されるように、自己を物理的にも心理的にもブッタ切っていくプロセス。だから、東京のようなタフな日常生活の中で、それをやり続けるリスクも感じている。ヴィパッサナによってあぶり出された痛みをじっくりと受け止めたり、体を休める暇を与えてもらえない。いちよう、マネージできる自負はあるものの、身体の変革の際には体調不良が起こるから、それをこのハードワークをこなしながら受け止めていくのは大変。人は多いしノイズは多いし、満員電車みたいな異常空間に押し込められたりするし、まあなんというアドベンチャー。

10日間、完全に隔離された安全で静寂な場所で行なう意味を改めて感じている。ただ、さればこそ、日々のヴィパッサナをやり続けることで得られる強靭さは、尋常ではないのだということも学び始めている。

というわけで、最近たまに私が体調不良に陥っているのはそういう理由です。激しくテコ入れしてるから当然の身体の反応。心配をかけている人はごめんなさい。でも、この時期を乗り切れば(今年1年はかかるかもだけど)抜け切ると予想しています。激務の後の夜の激込み列車とか、脂っこ過ぎる食事とか、たまにどうしてもかわせないものがあると体にきてしまうけれど、それ以外は、食欲旺盛、からだ開いてきて気持ちいいし、仕事はどんどんますますおもろくなってきているし、何より魂が常にコネクトしているから、かなり幸せ。

みなさまどうもありがとう。これからも愛のエコロジーで循環させていきまっす。

わたしの家は、急勾配の坂の中腹にあった。

自転車で帰るときは辛かったが、寝室の大きな窓から見える景色は格別だった。まっ白い壁の石造りの家が、長い坂道に沿って連なり、まっ青で雲一つない空と、照りつける太陽の光が反射して、町は息づいていた。はす向かいの角には小さなリカーショップがあり、店主とその息子たちは日がな店先でひなたぼっこやキャッチボールをしていた。道路に面したその窓から、恍惚とするほどに透明感がある、青い空の下で毎日を生きる人びとの姿を見ると、まるで小説を読んでいるような気分になった。あの空の色は、日常をドラマチックに色付けた。

しかし、君を最後に見た日、一体空はどんな色をしていただろう。

雨は降っていなかった。いつものように青と白に照らし出された明るい世界だったはずなのに。記憶は茫洋とし、でたらめだった。君は、チェックインカウンターの列に並んだわたしを見送りに来たが、あまりに長いので休みに行くと言い、ゆっくりとたどたどしい足取りで遠ざかって行った。背中を微妙な角度に少しだけ傾げたのが「じゃあ、また。」のサインだったのだろう。人混みに消えていく君に向かって、大きな声で呼びかけようかとも思ったがやめた。振り返らないのはわかっていたから。

それが最後だと、君は知っていたのだろうか。

君がいなくなった後、君が当時持っていた財布を見つけた。中を見るのは躊躇われたが、そのまま放っておくわけにもいかないと開けてみた。喉の奥の筋肉がひきつってきゅっと鳴った。そしてこの目を疑った。わたしを空港まで見送りに来た、まさにあの日の日付のレシートが1枚入っていた。空港へ向かう車の中で、わたしと落ち合う前に立ち寄って軽くランチを済ませたと君が話していたカフェの名前が記されていた。1年以上も前のものなのに。どうして?途端に、記憶は残酷過ぎるほど鮮やかに蘇えり、胸を締め付けた。どうして君はこんなものを後生大事に持ち歩いていたのだろう。想像だけが駆け巡って、思考は行き詰まり、頭がくらくらした。だけど、どうしても空の色が思い出せない。

克明に刻まれた、色褪せた記憶。

今日も窓から見上げた空は、どこまでも高く突き抜けた青だった。来る日も来る日も、鮮烈な空の色が目に焼き付く。それなのに、あの日の記憶が塗り替えられることはなかった。

色がないまま、立ち止まっていた。