傲慢と自律

傲慢とは、自分の意のままにしようとする他(外)へ向けられたコントロール。

自律とは、サーフィンで波に乗るように、意のままにできない自然の摂理のエネルギーに自分の意識を合わせ調整していく自己(内)に向かうコントロール。

他者の嫌いな部分に反応し、直そうとコントロールするのではなく、嫌なことが起こった時に自分に迫ってくるエネルギーに対し、自分から沸き起こってくるエネルギーをうまく波乗りさせよう。

波は必ず立つのだから、波を消そうとするのは無駄な努力。現象そのものではなく、現象との関係性を変える。

これもコミュニケーションプロセスデザイン。

1年半経った東北にちょっとお邪魔して。

今回、私はゆうやんに連れられるまま、自らの目的は特になく東北に行った。これまで関わってきた陸前高田含めて、2012年9月現在の東北の土地に触れてみて、そこで何を感じるかでやれることが見えるだろうと思っていた。

そんなこともあり、東北滞在2日目の昼間は、たくさんの打ち合わせが詰まっていたゆうやんと別行動をすることにした。運よく、気仙沼にあるゲストハウスの管理人さん達が石巻まで南下するというので便乗させてもらった。ボランティアでも復興事業でも何でもなく、運転免許の試験を受けに行く宿のマネージャーに、運転手として付き添ってあげる管理人さんが、試験が終わるまで待ってる間に温泉に行くと言うのでついていったのだ。マネージャーは気仙沼で生まれ育った大学生。管理人さんは311後に気仙沼にずっといる外からの移住者だ。

一つのものが壊れた時、そこには否応なく新しいものが外から入ってくる。津波と地震で流された廃墟の後にはたくさんの種がまって雑草が元気良く生えていた。自然が直してくれているように見えた。流された自分の家の跡に人が集まれる素敵なカフェを違法建築だけど作って暮らしてる人がいた。自分の会社の敷地に残った建物を利用してゲストハウスを開こうと、旅館業のライセンスを取るために四苦八苦している人がいた。

こういう小さい生きる力が、新しい地域と文化を生み出す。地元の人たちから生まれてきている新しい動きと、外から流入してくる新しい動きが結ばれて種となり、今までとは違った生活の兆しが見え隠れしている。私たちはその変化に気付くことが重要で、そのためには「復興のために何ができるか」という形骸的な枠組みから考えたりせず、ただふらりと土地を訪ね、歩いてみることが必要だと感じた。

人の流動が暮らしを作る。そんなふらり旅の最中に「あ、この土地いいな」と恋に落ちる人が現れて、移り住んで何かを始める。そこにまた行き過ぎる人たちが集まっていく。

これは沿岸部だけじゃなく内陸部にも、さらには過疎など日本の田舎が持つ根源的な問題に通じてく、大切なエネルギーの循環なんじゃないかなぁ。

東北に移り住んだり通って復興支援をしようとすると、途方もないものものの集積に押し潰されそうになる。解決すべき問題は巨大かつ膨大で、無力感だけが残る。でも、私たちのような関東や西の人間が、東北に足繁く通うようになったことそのものがすでに大きな転換だ。311がなければ、このような人や情報や物資や思考の循環は東京と東北の間で起こり得なかっただろう。

だから、この波を絶やさないために、ちょっと立ち寄ってみたいと思わせる小さな文化の芽がそこかしこに生まれてくることが大事なのかもしれないと感じた。

芽はすでにあるので、その芽を見つけに行くこと。春には桜を、初夏には水芭蕉を見に行くように。

TED Prize City 2.0: A question worth asking from a Japanese national

This year’s TED Prize is not for a person but an idea: City 2.0.

At TEDxSummit in Doha, I shared “a question worth asking”, instead of an idea worth spreading, with the TED global community.

I have freaking no clue. No idea worth spreading… I simply wanted to toss my question to the world as Japan needs help devastatedly.

I and most of Japanese just do whatever they can right now. Even if we envision something for the better future in a positive manner and create strategies, everything is uncertain.

The issues in Japan truly throw a philosophical question to us.

“What do we live for?”

Is it really important to rebuild the city 2.0 or 3.0 whatsoever in the Tohoku region that will always be affected by tsunami and quake every hundreds years AND is being damaged by radiation? (note: as long as we live on this planet, natural threats occur to us anywhere in any cases. I believe each of us can choose where to live, from the coastal area to high mountains to the desert.)

Does it really matter to increase job opportunities and revitalize economy for us humans to live happily?

Isn’t there REALLY a way of living besides what we do now with money, education system, food chain, etc…?

Nevertheless, we do what we can do for Tohoku and our country, building new communities, inspiring each other, launching new projects.

That’s life. I’m optimistic, but facing the question.

Make Our Life A Piece of Art

To get started, I would like to toss a question to us.

“Can we really walk on two feet?”

Yoga and meditation, by means of intentional or unintentional breathing, gradually alter physical alignment of our body. Twisted bones and tweaked muscles are unlocked, flexed, and get stored back in the right places.

The forward-bent shoulders, narrowed chest, stooped spine are opened up, stretched out, and become more and more straightened. When my head, neck, shoulder blades, spine, lower back bone, and hip joints are firmly aligned, I notice a difference in my walking. I become able to walk more naturally in a balanced manner. I am stunned to learn how distorted my walking was. I have failed to be bipeds for the past 30 years.

What we normally do everyday for a number of years. What we undoubtedly believe that we are capable of doing with excellence. Our life is accumulation of such things. Walking. Eating. Seeing. Hearing, and so forth.

Yet, can we really say so?

Do we really walk on the two legs? Do we really taste food on the tongue? Do we truly see things with our eyes?

Are we fully connected to what we are intrinsically given? What does it mean to be authentic? How can we stay true to ourselves? I have been searching for it.

What is the purpose for our life? It could be for the earth in 100 years. It could be for the next generation. It could be for giving a positive impact on the present society. No matter what it might be, we are to quest why we are here, and what our roles to play and be part of this world

As I’m heavily involved in such a forward-thinking project as TEDxTokyo, I’m often asked, “what’s your next project?” “what goal do you want to achieve?”  But, I don’t have much to say because I’m not as ambitious as people expect. I’m not interested in leaving my marks on the world. I don’t have a 10-year vision.

What do I want to do, then?

I’d love to express myself to the fullest. Though it sounds selfish, this is my honest feeling.

An old friend of mine back from college described me, “you live your life as art”

I pursue a path of being myself, letting my presence as it is, for nothing. I simply embody it in my daily life. I am a piece of my art work. I am the consequence of my expression.

Whom I meet to, where I choose to live, what kind of words I weave, what way I work, what color of love I embrace. My art is neither paintings nor sculptures, but the way of my living.

I wish to be always there for someone who needs my existence at a moment. Being just who I am can be of great help for others, I believe. With no self-sacrifice. With no self-restraint. Without losing a sense of who I am. We humans are meant to appreciate our life, put smiles on others’ faces, and build symbiotic relationships with the other species. Why not doing it? Where egoism units with altruism, my life exists.

But, how? What possibly makes someone’s life art?

My painting blush and ink are communication. From the very beginning to the ending of life, we are destined to communicate seamlessly, regardless of nationality, ethnicity, age, sex, or even species. When alone, we play with imagination. When asleep, we travel in a dream. Talking. Writing. Drawing. Using sounds and movements. We are no longer limited to proximity. Physical communication. Tele communication. Online communication.

We never stop breathing from the birth to the death. Likewise, we don’t cease to communicate until the last day. I think that communication is the minimum unit of social activity of human being.

Each and every portion of communication is the painting blush and colored ink that I select to use.

In order to pursue my art of living, I create the new profession for me; Communication Process Designer. It allows me to seek my soul that is neither defined nor confined by society and culture.

As Communication Process Designer, I support people in tapping into their values and discovering their favorite ways of working. I nurture community where similar passions are shared among its members. I also produce and curate events, and take the lead in various projects. While my job covers a wide range, the essence of Communication Process Design is to lay the foundation of love and trust in order for us to accept as it is and live with integrity.

Breathing dissolves imbalance in our body. Communication dissolves imbalance of society, in other words, the web of human relation.

There are a plenty of breathing techniques invented to purify our body and soul. What kind of communication is in need to work on imbalance of society?

We take it for granted to excel in communication since we do it for years. However, do we really communicate in a genuine manner that enables us to come close together? Have we cultivated such capacity?

人生をアートする

今回のプレゼンテーションを準備する際に、
会場に問いを投げかけて欲しいと言われました。

私がみなさんに問いかけたいのは、
「ちゃんと二足歩行できていますか?」ということです。

瞑想やヨガは、呼吸を使って骨格や筋肉の付き方に変化を及ぼします。
曲がってついているもの、歪んでしまったものが、
元のあるべき場所に、あるべき形で納まっていく。
前傾になった肩、狭まった胸骨、丸くなった背骨が開き、
平らかになっていきます。
頭部、首、背骨、腰、股関節がしっかりと連動すると、
歩行の仕方に変化が表れました。
31歳にして、今まで自分はちゃんと二足歩行ができていなかったことに気が付きました。

人間として当たり前にやってきていること。
自分にはきちんとそれができると信じて疑わないこと。
そういったものはたくさんあります。
歩くこと、食べること、目で見ること、耳で聞くこと。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
私たちは、きちんと歩けているのでしょうか?
きちんと食べているでしょうか?
しっかりと目で見ているでしょうか?

本来の人間が持っているものを活かし切っているでしょうか?
真に人間らしい、自分らしいとはどういうことでしょう?
私はずっと、このことを探求してきました。

私たちの生きる目的とは何でしょうか?
100年後の地球のためだったり、次世代の子供たちのためだったり、
今ある社会にポジティブな変化をもたらすためだったり、
私たちはそれぞれ、なぜ生を与えられたのか、
社会の中で成すべきことは何なのかを模索しています。

TEDxTokyoといった活動をしていると、
「この先はどんなことをしたいの?」
「次の目標はなに?」といった質問をよく受けます。
でも、私は特に社会で成し遂げたいことはないし、
10年後のビジョンなんてものはありません。
私がしたいのは、自分を表現し尽くすこと。
なんとも利己的ですが、それが素直な想いです。

10年来の親友が出会った頃間もなく、私をこう言い表してくれたことがあります。

「人生をアートする人」

何のためでもなく、ただ自分のあるがままの姿を追求し、
それを日々の生活で体現していくこと。
自分自身が作品であり、表現の結果となります。
どんな人と出会い、どんな場所で暮らし、どんな言葉を紡ぎ、
どんな働き方を模索し、どんな愛を育むか。
私の作品は、絵でも彫刻でもメディアアートでもなく、私の生き様です。

私がこの生を全うする中でとても大事にしていることは、
自分が下手な努力や無理をせず、ありのままの自然体でいることによって、
他者のためになる存在となること。
自己犠牲でもなく、自己の抑圧でもなく、
人生を謳歌しながら周りの人を笑顔にし、
他の生き物や自然と共にあれたらそれ以上のことはありません。
利己と利他が合一するところに、わたしのアートがあります。

人間という動物に生まれたわたしらしくあるために、
自分の生き様を作品として表現していく。
日々の生き方をアートにしていくために、
絵の具となり筆となるのはコミュニケーションです。

私たちは、生れ落ちた瞬間から死ぬ間際まで、
コミュニケーションを絶え間なく続けています。
国や文化や言語を違えても、年齢や性別、あるいは生物の種に関わらず。
仕事をしている時、勉強している時、家族と過ごしている時。
1人でいても自分とコミュニケーションをしています。
頭の中で妄想を膨らませ、寝ている間は夢を見る。
話す、書く、絵を描く、記号を使う、メロディーを奏でる、スポーツをする。

空間を共にするコミュニケーション。
電話を介するコミュニケーション。
インターネット越しのコミュニケーション。

私たちは命の誕生から終りまで呼吸を止めることはありません。
同じように、生まれてから死ぬまで、
コミュニケーションをひたすら続けます。
人間の社会的活動の最小単位がコミュニケーションであると私は考えています。

コミュニケーションの1つ1つが、
わたしというアート作品を描くために
選び取られた筆であり、
選び抜かれた色となります。

そんな生き方を持続させるために、
コミュニケーション・プロセス・デザイナーという職業を創り出しました。
人間らしい生き方とは何か。
社会や文化で規定された枠ではなく、
生まれながらにして持っている自分らしさとは何か。
その探求を仕事を通してしていくためです。

個人が自身の内にある価値観に触れ、
その人に合ったキャリアを発見するのを手伝ったり、
同じような想いを抱く人びとが共感し、支援し合うコミュニティを育成したり、
イベントをプロデュースしたり、組織をデザインをしたり、
リーダーとなってプロジェクトを執行したり、
コミュニケーションに関する幅広い活動をしていますが、
コミュニケーションプロセスデザイナーの根底にあるのは
「あるがままの自分」を受け入れ、
そんな自分を体現していくための環境と
信頼ある人間関係を築くことです。

呼吸を通じて体の中の歪みが消えていくように、
コミュニケーションを通じて、
社会、つまり、人間関係の網の目の中の歪みを消していきます。

身体と精神を浄化するために、いくつもの呼吸法がありますが、
私たちを取り巻く社会のひずみに働きかけるには
今、どんなコミュニケーションが求められているのでしょうか?

生まれてから何十年もやり続け、
当たり前にできていると思い込んでいるコミュニケーション。
しかし本当に、私たちらしい、自然で心地よい、
お互いが寄り添うことのできるコミュニケーションを行なっているでしょうか?
その力を私たちは培ってきているでしょうか?

 

note: this was presented at Miratsuku Forum, the theme of which was “Collective Innovation,” on Dec. 23, 2011.

仏教的視座ーヴィパッサナとコミュニケーション・プロセス・デザイン

18歳の頃から始まった自己探求。勉強、遊び、恋愛、旅、サブカル、社会人の真似事、、、やりたいことには正直に、貪欲に。

その核にあったのは、自分の魂と繋がること。

最初は自分でも言っている意味はよくわかっていなかったと思う。「魂ってなに?心臓?人魂?」とついビジュアルを想像したくなったりして。でも、胸の奥の奥の、誰の手にも届かないところに、自分を突き動かす何かがあることは知っていて、例えば「神」という言葉のように、見えないものを具体化するために「魂」という言葉を選びとっていたのかもしれない。

私の場合、自分の魂と繋がること=人間の精神を理解すること、だった。だから、東洋/西洋哲学、心理学、文化人類学、宗教学などの講義を取り、図書館に入り浸った。そのうち書物漁りでは飽き足らなくなり、瞑想なるものを試し出した。高野山で阿字観を学び、月輪観を体験し、鎌倉の臨済禅を嗜み、アメリカ西海岸にて曹洞禅に辿り着いた。知的好奇心から始まった瞑想との関わりは、いつしか悲しいときや辛いときに心を静める大切な時間となった。

28歳で生けるものとしての不条理な挫折を味わい、完膚なきまでに打ちのめされた私は、日本に帰国して放心状態だった。そんな中で出逢ったのがヴィパッサナ瞑想。ゴータマ・シッダールタが仏陀となった際に行なっていたとされる、心を浄化するための瞑想法だ。意味は「あるがままを観る。」

ヴィパッサナ瞑想では、物質的な人間の肉体を徹底的に解剖していく。

どうやってするのか?

ひたすら「呼吸」を捉えることに全神経を注ぐ。そして呼吸を軸に、身体の感覚(センセーション)を皮膚、爪、髪、筋肉、骨、血管、内蔵、脳、さらには細胞レベルでまで知覚できるように意識を研ぎすませていく技術だ。

私たちは起きている間はもちろん、食べていても、寝ていても、セックスしていても、泳いでいても、植物状態になってさえ、必ず呼吸をしている。死ぬまで変わらない唯一の事実。それは呼吸だ。幸せなときも、恍惚としたときも、緊張しているときも、怒っているときも、泣き叫んでいるときも、我慢しているときも、呼吸は続く。仏陀は、呼吸の「自然な」状態を観察する能力を培うことで、心を一時的に穏やかにするだけでなく、心や頭の乱れの根本を捉え、心をまるごと浄化し、苦から逃れる術を確立し、涅槃に至ったと言う。呼吸の自然な状態とは、意図的にコントロールすることなく、呼吸が浅ければ浅い、息苦しければ息苦しい、微々たるものであれば微々たるまま、一瞬一瞬の呼吸の質を観察し、認識し、それに対して反応をしないということ。

人間活動の最小単位を呼吸と定めてアプローチした仏陀。

ヴィパッサナ瞑想を始めてから間もなく、私は長かった学生モラトリアムに終止符を打ち、「コミュニケーション・プロセス・デザイナー」という職業を創ってフリーランスとして動き出した。この根底には、次のような世界観がある。

私たちは、コミュニケーションを絶やすことはない。友達や家族、恋人と一緒にいても、商談でも、授業でも、診察を受けていても、セックスしていても、スポーツしていても、一人でいても頭の中のもう1人の自分と、寝ていても夢の中で、コミュニケーションをする。だから、自分のコミュニケーションがどのような過程を踏んで成り立っているか、自分のコミュニケーションスタイルがどういったもので、それがどう周囲や自身に影響を及ぼしているのか意識化することで、毎日が笑顔で美しいものになると考えた。いつでも幸せでいられるわけではないけれど、辛く悲しい状況になっても、自分のコミュニケーションの術を心得ていると、落ち着いて感情を受け止めてあげることができる。

人間活動の最小単位はコミュニケーションである、と考えて生み出したコミュケーション・プロセス・デザイン。

こんなところに共通項があったとは。

311 and me

On March 11th,  I was in the foot of Himalayan mountains in Dehradun, India.

How come? I was undertaking a 10 day course of Vipassana Meditation from March 1st. Vipassana is the way of meditation that Buddha applied in his entering into Enlightenment. Meditators of the course live in a Vipassana meditation center for 12 days and simply sit for 10 days. They are not allowed to carry out any type of communication (verbal, non-verbal, even making a sound). They are prohibited to write, draw, read, run, exercise, practice other meditation techniques, and conduct religious or spiritual rituals. Noble silence must be kept. They share a room with another participant, but they may not communicate with each other at any level. Everyday, we looked down on the floor and soil or looked up to the ceiling or sky to avoid eye contact. In the dining room, nothing but little cracking sounds of cutlery and dishes resonated.

I got the tragic news of my country on the final day of the Vipassana. On Day 10, in order for meditators to gradually go back to normal society, the noble silence ends and they are allowed to look into the others’ eyes and talk in limited areas. During a lunch break, I retrieved my valuables from the reception and turned on my mobile just because I wanted to make sure that “nothing had happened to my family” for the 10 days. As soon as the mobile was on, one text message was delivered from an Indian friend of mine who used to live in Tokyo.

“M9.0 earthquake hit Yokohama.”

The very first information from the world after such intense 10 days of inner exploration was this.

What the fxxk.

Shit.

Really?

OH SHIT.

Looking back, I probably learned about the crisis right after it had actually occurred. Time difference between Japan and India is 3.5 hours. The morning meditation session finished at 11am and the lunch break lasted until 1pm.

The shock I got was incredibly amplified due to the Vipassana effect. I was terrified by the fact that my intuition of “emergency” was right. While shaking, I barely managed to make a phone call to my mom and assured her and my bro’s safety. I was almost resolved to fly back to Japan immediately as thinking of the worst case scenario for my family (luckily that wasn’t the case). When merciless incidents occur in my life, I’m always abroad. I’m used to jumping in an airplane and rushing to my family. Good lord.

On the very last day of the course, this tragedy happened to my beautiful country. This coincidence makes me ponder, what role is given to me?

Threads of life were intertwined and woven strikingly. At the end, my life took me to Dharamsala, the sacred village for both Indian and Tibetan. I led a everyday life there for three weeks. Then I flew back to Tokyo on April 12th.

Despite people’s curiosity of how I coped with being back in Tokyo that drastically changed, I should say that nothing affected me. Regardless of 311, I had been going through transformation during the journey in India (to be precise, it had set about since 2010). I was fully transformed and arrived at Narita with the new senses. Therefore, I could naturally accept the world of Japan as it was.

It’s been almost two months since my return. Japan, especially the northern part of Tokyo and Kanagawa (my city) upward, is facing tremendous danger. The disaster areas are beyond description. Moreover, the nuc plants are miserably severely damaged. Now, three of Fukushima plants are in complete meltdown. (not merely Daiichi). Our gov. is so fxxked up that no information and data is reliably released.

I admit my responsibility that I have been dependent on the Japanese energy system and economic/political policy as a national, and a risk of potential life hazard such as cancer at early age or impairment of pregnancy. Needless to say, I try my best and hardest to protect my healthy body as well as family, friends and people. Nonetheless, in reality, we don’t have the right solution to escape from invisible radiation. We are and will be exposed to it to some degree anyway. I’m scared.

But, I’m a part of it.

Going back to my question that arose on the 10th day of vipassana. What is my role here?

I came to a conclusion towards the end of my trip in India: I’m meant to be there for those who are in need to let their emotions and feelings out as well as support them in thinking through what their life really is. I would come and listen to them only when they ask me so. This year, my focal point is to be shifted to the more individual level.

A few of my friends share with me an intriguing aspect: People residing in the Tokyo Metropolitan area are reluctant to acknowledge that they are also victims of the 311 disaster because “real” victims up in north suffer so devastatingly that Tokyo people feel guilty to consider themselves as victims. Relativism of misfortune. But, we know that we can’t compare the quality of happiness and misfortune with those of others. We individuals are only able to experience what each of us experiences.

And my friends continue like this: Naho is not a victim since she was in India. Having this different angle of looking at Japan as a non-victim Japanese is beneficial. For, thoughts and actions of Tokyo people who went through the 311 are confined, which hinders them from seeing things from a wider perspective. Besides, I could be of help to release their hidden tension and anxiety that they are unwilling to express because of a sense of guilt.

It appears to me that my awareness and my friends’ awareness of my role are in synch.

What makes life fascinating is that inquiries started to come to me soon after I was settled back in Tokyo. It flows naturally.

プロフェッショナル。ボランティア。プロボノ。そしてパーソナル。

プロフェッショナルってなんだろう。

ボランティアってなんだろう。

プロボノってなんだろう。

パーソナルってなんだろう。

私にとってこれらの線引きは曖昧。

「仕事」や「プロ」と呼ばれるものが「金銭を支払われる」という「契約」に基づくのであれば、私のプロとしての仕事の割合は、コミュニケーション・プロセス・デザイナーとしての全活動の半分くらいかもしれない。日本の大学を卒業してから就職せずに渡米し、大学院を終えて、アメリカでも就業経験がないまま日本に帰国することになった。それから半年くらいは「仕事」はしておらず、いきなりフリーランスの道を走り始めた。今年で3年目になる。まだまだスタートアップの私にとって、しかも職業の概念そのもの、仕事そのものを1つ1つ創りながらやっているので、金銭を軸としない就業形態になることがある。それは、端からは「ボランティア」とか「プロボノ」と表現される。あるいは「お金にならない仕事」とか。

資本主義ベースの貨幣経済に生まれた私たちは、お金がないとサステナブルな生活は送りにくい。ここで机上の空論を展開するのは無意味だと考えている。お金は大事。お金自体はツールであって、原因ではない。その運用方法が限界にきているだけ。それに、私は豊かな都市圏で暮らすことに慣れていて、それも一概に悪だとは思わない。生まれ落ちた時代、与えられた現状の中で、自分の価値観と社会や文化、自然を照らし合わせながら、さらには違う国や地域の文化や風習からも学びながら、どんな生き方にしていくか毎日の小さな選択を積み重ねている。

その一方で、私はお金にあまり執着がないというか、お金を生み出すという行為にあまり注力できない人間であることも知った。フリーランスとして食べていってるから can ではあるんだけど、shouldって思ってないな〜と。文字通り、その時その時にいただくもので生きていってる。お隣さんからおかずを分けてもらうフランクさで、お金のやり取りをしている気がする。実際に、お金以外の形でいただくことも少なくない。(working exchangeもそうだし、忘れた頃に「海外のカンファレンスに行ってきなさい」ぽーん!だったり。2ヶ月旅に出てもみんな心から笑顔でその意義を理解し待っててくれたり。)

私にとって「プロ」や「仕事」と言われるものは金銭契約とは関係がない。それがあろうとなかろうと、私のpresence と知識、経験、パフォーマンスを信じて案件を振ってくれる方々に、責任とクオリティーの面でプロとしての役割を果たす。特に、コミュニケーション・プロセス・デザイナーが提供するものは、これまでの市場にない価値形態であり業務内容だから、まずは見て触れて体験してもらって関心や信頼を得ることが必要。いきなりcurrent marketのルールに則る(金銭契約)のが難しいのは当然。Something strangeにbidするって、芸術以外ではハードル高いよね。

そんなわけで、プロフェッショナル、ボランティア、プロボノといった間仕切りは I comprehend it but don’t follow it.

TEDxTokyo や TEDxTokyo yz で私がやっていることは、私にとってはプロとしての仕事。実践/修練の場。私は将来、こういう仕事(プロジェクトベースで次々に組織をローンチしたり、その周辺コミュニティをデザインし、育てていく)が “paid” なメインストリーム市場として成立すると信じてるから先行投資としてやっている。いわゆるボランティア活動という認識は微塵もない。既存のものとは違う社会/経済/政治体系を創り、そのエコシステムの中でおもしろおかしいアイディアがどんどん形になっていく— そんな容れ物をデザインし、こねこねしていく人がコミュニケーション・プロセス・デザイナー。(加えて、自分が構築しているシステム内で、自分のキャリアデベロップメントも行ない、プロトタイプとして提示するという2重構造。)

TEDxTokyo について「ボランティア組織をデザインし、まとめる」という言葉を便宜上使っているけれど、お金という契約を結ばずして、 “Ideas worth spreading”  “Open Source” “Creative Commons” といった哲学から新しい社会システムを築こうとしているTEDとTEDxTokyo を、不特定多数に説明する際に一番端的な言葉だからというだけ。「端的」だけど「的確」だとは思っていない。実際、TEDxTokyo と TEDxTokyo yz コミュニティからは、実際のビジネスプロジェクトやenterprise、新たなコミュニティが出現していっている。まだ、初期段階でsystematicなプロセスデザインになっていはいないけど、まさに「ソーシャル・インキュベーション・システム」として機能し始めてる。あるいは、メタコミュニティか。

この辺りは、「ボランティア」というカタカナ語の持つニュアンスの問題もあるんだよね。英語の voluntary — volunteer には、「ボランティア」の持つアンプロフェッショナルな感じや、組織側の「お金がなくて払えません!」「お金払わないのが原則」的な香りはそこまで強くない。あくまで「お金は受け取りません」というボランティアを提供する側のスタンスに重きがあると思う。

もう1つ。プロフェッショナルとパーソナルの境界線。これも曖昧。

私はコミュニケーションの「過程」「how」をデザインする人。そのフィールドを、組織形態や規模、産業、業種、年齢、国、文化などで絞っていない。ビジネスでも夫婦でも親子でも学校でも病院でも地域でも国際社会でもバーチャルでも、他人に対しても自分に対しても、コミュニケーションのエッセンスは同じ。そこに組織心理学や臨床心理学、東洋哲学やボディワーク、アートの方法論や技法を取り入れてやっている。

家族との関係作り、友人との愛情交換、恋をする時、1人の時間を過ごす時。こういった日常すべてが、コミュニケーション・プロセス・デザイナーの私にとって学びと実践の場。プロとしていつも気を張りつめているという意味じゃなくて、パーソナルもプロフェッショナルもないなーという、それだけ。

人間を追求すること、コミュニケーションのことが仕事だから、一瞬一瞬の触れ合いがプロフェッショナルデベロップメントに繋がってる。スキルアップになったり、新しい仕事をもたらしてくれたり。なんでパーソナルとプロフェッショナルを分けてるんだろう。そういう言葉(概念)があるからかな?だとしたら、言葉に操られて思考が固定化され、それに行動選択が影響されているのかも。人間は自分が編み出したものに逆に操られちゃうんだね。機械とか。言葉とか。

話が逸れてきたのでこの辺で。

モチベーションの話。コミュニケーションの話。

組織のリーダーとなったり、中間管理職的だったり、コンサルタント的だったり、契約社員的だったり、アドバイザー的だったり、様々な立ち位置を経験する中でも、私の主な役割は、

(その時に)属している組織が、信頼溢れるコミュニケーションを結びながら、遊び心豊かなアウトプットを、実践的効果的に出すこと

なんじゃないかと思う。

その際、私は「モチベーション」という要素について殊更考えたり取り組んだことがない。

モチベーションは副産物であって、働きかける対象ではない気がする。私たちはいつでも100%フルパワーではいられないし、いる必要がない。ダラダラしたい時もあるし、イライラしちゃう時もある。それを「モチベーションが上がった下がった」という定規で測って、「そら、今数値が下がってきてるから上げよう!」と賞与システムやら福利厚生やら、コーチングやら、あの手この手でモチベーションメーターをぎゅんぎゅん人力で上げようとすることはエネルギーの浪費かもしれない。「上がんないもんは上がんないっすよ。先輩。」なのである。しかも、「モチベーションって一体なんなんっすか?俺はうまい飯を食べたいっす。」なのである。

モチベーションという1つの項目があるのではなく、モチベーションは1人の人間を構成する複数の要素の期待値の総和、みたいなもんじゃなかろうか。となれば、horizontalな見方をしないとモチベーションは語れない。

それよりも、常に色んなメーターが上がったり下がったりしている人間が寄り集まった時に、全体としてまるっとスムーズに流れる容れ物(組織)を作っていく方がいいんだろうな、というのが経験知。だからこそ、寄り集まる意味があるんでしょ!誰かが下がって前線を退いたら、他のメンバーがカバーしていく。その間にモチベーション下がっちゃったメンバーはエネルギーチャージしてもらう。

あと、モチベーションは私たちの夢や方向性とリンクしているので、モチベーションが下がったということは、もしかしたら、もうその組織に属している根本的な意味が薄れていっているのかもしれない。そういう人のモチベーションを上げようとしたところで、双方にとってプラスはあまりない。その人が次のステップへ向かえるような、別の形のサポートをするのがいいと思う。

モチベーションを間接的に上げていくために必要なのは、自分とそれぞれメンバーとの信頼関係構築に尽きる。でも、他人とばっかり信頼を築こうとしても、その橋は一生出来上がらない。まず最初に、自分自身を受け入れ(愛し)、自信を持ち、信頼してあげること。なぜならば、私たちは自分の中で認められないこと、弱み、自信のないことを、他者にも投影してコミュニケーションするから。勝手に「そうだと」思い込んだ言動が積み重なり、複雑化していく。

他者とのコミュニケーションは、自己とのミスコミュニケーションの延長線上。

だから、自分への愛と信頼に基づいた、他者への愛情と信頼のコミュニケーションが大事となる。

毎日の積み重ねのコミュニケーションプロセスがあれば、その人のニーズがわかり、SWOT分析ができ、キャリアプランニングも見えて来るし、実践的なパフォーマンスも上がる。その背後では、モチベーションという横断的なものがぶわーっと上がっているのだろう。

さらに、各メンバーの強み弱み、性格、好き嫌いがわかると、どんな役割についてもらい、どんな人とチームを作ってもらい、全体としてどんな組織にしていくかが視覚化できるようになる。良い塩梅の組織構造ができると、体臭のような組織文化は自ずと良いものに醸成されていくので、よってモチベーションもまた上がる。

TEDxTokyoの組織論的舞台裏

TEDxTokyo という得体の知れないもの。

そのチームを繋ぐkey roleをしている得たいの知れないワタシ。

実のところ、自分がTEDxTokyoに関わるようになったのは、TEDを知っていたからでも、TEDtalksに感銘を受けていたからでもない。そもそも私が最初に出会ったのは、TEDxTokyo Co-founder の Toddと、まだまったく形がなかったTEDxTokyoという概念だった。それから、「母体がアメリカ西海岸発祥のTEDってものなんだよ。」と彼に教えてもらった。

じゃあ、どうしてTEDxTokyoをやることになったのかというと、純粋に「組織論の実験場」になる♪(* ̄ー ̄)v!!!という思いからだった。なんとも応用(人文)科学系院生活終了間もなかった(と言っても1年経過していたけど)人らしい発想。

以前ブログにも書いたように、私は、現行の西洋哲学に裏打ちされたパラダイムから端を発する「組織学」とは違った組織論がすでに展開されつつあると感じていたし、さらに押し進めた新しい形の組織を創ってみたいという欲求があった。「TEDxTokyoでそれが試せる!」というシグナルが、私をそこに飛び込ませた。

Toddとの出会いから1ヶ月後、当時スタンフォードより日本の大学にteaching exchangeで滞在していたカーラと一緒に、チームをスクラッチから作っていくという任務を遂行することとなった。Toddの家にあった何千という名刺の山と、彼がコツコツと貯めたプロフィールデータを1つ1つ整理し始め、連絡を取り、小さいイベントを開催し、徐々に黎明期コアチームを築いていった。それから2年半。私のTEDxTokyoチームデザインとコミュニティビルディングは終らない。

なんと言っても、十人十色な個々人が集まってボランティアベースでチームを作るのは大変。しかも、TEDxTokyoという蜜に吸い寄せられる蜂や蝶は一筋縄ではいかないキャラ立ち揃い。この人たちと信頼関係を築き(人間的にも能力的にも)、彼らの声を丹念に聴き、そしてリーダーとして声を発し(私はリーダーでもないんだけど、リーダーシップは発揮してる。リーダーという「人」と、リーダーシップという「能力を発揮する人」は別ものなんだと思う。)、それに耳を傾けてもらえるようになるには、love and care and persistence が必要。

具体的にどんなスキルセットが必要か、最近見えてきたので領域別に書いてみると、

  • 愛と信頼を育むコミュニケーション力
  • 組織デザイン力
  • 人のマネージメント力
  • 人の育成力
  • プロジェクト/タスク・マネージメント力
  • プロジェクト・ファシリテーション力
って感じでしょうか。

上記をさらにブレークダウンすることができるけど、それは次回に置いておく。

多くのリーダーに不足しているのは組織デザイン力。不足しているというより、そもそもその視点がないので、competency を伸ばしようがない。

Beware! なのは、プロジェクト・マネージメント力とヒューマンリソースマネージメント力はまったく違ったものだということ。前者ができると後者もできると思い込みがちだが、後者が抜け落ちている場合が少なくない。契約に基づき、明確な役職、責任、インセンティブが設定されている従来の組織であれば、プロマネ力だけでも力技で進んだりするんだけど、ボランティアベースで繋がり方がまったく違う組織内では、この両方を併せもっていることが特に大事で、片方だけが得意な人がリーダーになる場合は、別の人とツートップにして補完すること。あるいは、ヒューマンリソースマネージメント系を組織横断的に見ていくチームを別個作る(多くの会社組織はこれ)。ただ、ボランティアベースの場合にこのやり方をすると、組織が拡大すればするほど重荷になってしまうから、うまいハイブリッドポイントを見つける必要あり。

もう1つ鍵になるのは、マネージメント力(中央管理/監督)とファシリテーション力(自治を与えてエンパワメント)の二刀流であること。前者だけだとガチガチの組織風土になって結局コーポレートの二の舞になり、「じゃあなんでボランティアなの?」みたいなそもそも論になるし、後者だけだと、よくある情熱ありきで物事決まらない進まないの大混乱になる。TEDxTokyo に集まる人は基本、超高速なので、スピーディーかつリズミカルに結果を出していくプロセスデザインをしないと中だるみになる。あとは、アウトプット量が莫大なので速くないと追いつかないってのがそもそもある。今更言うまでもないけど、どんなものを生み出す(製造/生成)組織かで、集まる人も変わるし、組織文化も変わっていく。

In any cases, リーダーに必要不可欠!なものとして絞り込むならば、

  • 愛と信頼を育むコミュニケーション力
  • 組織デザイン力
  • 人の育成力
  • プロジェクト・ファシリテーション力

の4つかな〜。

人のマネージメントと、プロジェクト/タスクマネージメントは、チームメンバーに任せていい。

リーダーは火や風っぽい人が主流だしパワフルだけど、水や土っぽい人もいい気がするんだよねー。(すごい抽象論に一気にすっ飛びました。)全部の要素があればベストだけど、これからは後者のニーズが増えるのでは。

話を戻して、忘れてはならないこと。

TEDxTokyoという得体の知れない組織が、得体の知れないアウトプットを世に送り出し成功し出している秘訣は、TEDのプラットフォームとそこが提供するプログラムをうまい具合に有効活用してること。揺るがぬ哲学と世界観がある。TEDx ライセンサーは、そこを創る必要はもうない。(これが足枷になることもあるが。)

TEDにとっても、TEDxというスキームがなければ自らの哲学を実践に落とし込むことができないので、見事な相互依存ができている。TEDx 組織はTEDに依っているし、その逆もまた然り。自然の生態系に見られる共生によく似ている。これがTEDという新しい組織モデルの旨味。(注:TEDの組織モデルと、各TEDx の組織モデルは共通点はあるがまったく異なるもの。TEDは材料の一部と足場を用意してくれているけれど、実際に土を掘り起こし、土台を固め、設計図を引き、組み立てていくのはローカルのTEDx のリーダーの理念に依る。TEDは木の幹であり、枝葉がどのような形でどのようにして伸びていくかは太陽や水任せ、という感じ。)

そして、TEDxTokyoの成功の一翼は、明確なリーダー、Co-founders の Todd & Patrick の存在。なにより、彼等は信頼され愛されている。ここが1番大事。「まー、しょーがねーからついてってやるか!」と「うわ、この人まじヤヴァイ、やっぱすげーな!」を両方味わえる旨味度が高いリーダー。ちなみにPatrickは火と風を両方持ってて、それだけでも素晴らしいのだけど(普通は火だけとか風だけ)、Toddが土っぽいので絶妙なカップリング。たまに、火が燃え移って地面も火柱上げてるけど(笑)。そこに今度は風が吹いて、火が消し止められる。

これからの組織は、誰でもがリーダーシップを取るエンパワメント型、組織構造はネットワーク型で、collaborative なやり方がますますトレンドになる。しかし、それでも大きなビジョンを打ち出す/まとめるリーダーシップは要る。テントを立てるには、どんな形にしろ、ポールの本数や力点の数は変われど、支点が肝になる。支点って、どっか上の方に飛び出てるもんじゃないんだよね。リーダーも一緒。前に出て引っぱっているだけがリーダーではない。力学の問題と組織論は似ているかもしれない。