1年半経った東北にちょっとお邪魔して。

今回、私はゆうやんに連れられるまま、自らの目的は特になく東北に行った。これまで関わってきた陸前高田含めて、2012年9月現在の東北の土地に触れてみて、そこで何を感じるかでやれることが見えるだろうと思っていた。

そんなこともあり、東北滞在2日目の昼間は、たくさんの打ち合わせが詰まっていたゆうやんと別行動をすることにした。運よく、気仙沼にあるゲストハウスの管理人さん達が石巻まで南下するというので便乗させてもらった。ボランティアでも復興事業でも何でもなく、運転免許の試験を受けに行く宿のマネージャーに、運転手として付き添ってあげる管理人さんが、試験が終わるまで待ってる間に温泉に行くと言うのでついていったのだ。マネージャーは気仙沼で生まれ育った大学生。管理人さんは311後に気仙沼にずっといる外からの移住者だ。

一つのものが壊れた時、そこには否応なく新しいものが外から入ってくる。津波と地震で流された廃墟の後にはたくさんの種がまって雑草が元気良く生えていた。自然が直してくれているように見えた。流された自分の家の跡に人が集まれる素敵なカフェを違法建築だけど作って暮らしてる人がいた。自分の会社の敷地に残った建物を利用してゲストハウスを開こうと、旅館業のライセンスを取るために四苦八苦している人がいた。

こういう小さい生きる力が、新しい地域と文化を生み出す。地元の人たちから生まれてきている新しい動きと、外から流入してくる新しい動きが結ばれて種となり、今までとは違った生活の兆しが見え隠れしている。私たちはその変化に気付くことが重要で、そのためには「復興のために何ができるか」という形骸的な枠組みから考えたりせず、ただふらりと土地を訪ね、歩いてみることが必要だと感じた。

人の流動が暮らしを作る。そんなふらり旅の最中に「あ、この土地いいな」と恋に落ちる人が現れて、移り住んで何かを始める。そこにまた行き過ぎる人たちが集まっていく。

これは沿岸部だけじゃなく内陸部にも、さらには過疎など日本の田舎が持つ根源的な問題に通じてく、大切なエネルギーの循環なんじゃないかなぁ。

東北に移り住んだり通って復興支援をしようとすると、途方もないものものの集積に押し潰されそうになる。解決すべき問題は巨大かつ膨大で、無力感だけが残る。でも、私たちのような関東や西の人間が、東北に足繁く通うようになったことそのものがすでに大きな転換だ。311がなければ、このような人や情報や物資や思考の循環は東京と東北の間で起こり得なかっただろう。

だから、この波を絶やさないために、ちょっと立ち寄ってみたいと思わせる小さな文化の芽がそこかしこに生まれてくることが大事なのかもしれないと感じた。

芽はすでにあるので、その芽を見つけに行くこと。春には桜を、初夏には水芭蕉を見に行くように。

死は与えられるのだろうか?

宿の管理人さんの運転する車で眠りこけていて、起きたら崩れた校舎と、花に飾られた墓石が目の前にあった。なんとはなしに北上川沿いの道を河口に下っていってぶつかったのが大川小学校だった。60余名の子供の命が亡くなり、避難経路の確認や遺族からの訴訟が始まっているらしい。この立地ならば、もしすぐ隣の山に逃げていれば助かっていただろうに、という思いを拭い去ることはできないだろう。でも、生き物の生死に「もし」はない。死ぬのだ。否応なく。どのように死がもたらされるか、そこには私たちの力の入る余地はない。

先導した先生たちに、子供たちの死への責任はあるのか?ないのか?墜落した飛行機のパイロットに、乗客の死の責任はあるのか?ないのか?いじめを受けて自殺をした子をいじめていた人たちに、その子の死の責任はあるのか?ないのか?暴行殺人に及んだ犯罪者に、被害者の死の責任があるのか?ないのか?

闘病を必死にして死の準備をして死んでいく者と、突然交通事故で死ぬ者と、彼らの死には何か違いがあるだろうか。後者は本人が予期していず、無念だと感じながら死ぬかもしれない。それが問題なのだろうか。問題ではないのだろうか。前者の方が自分の死に責任をもっているのだろうか?いないのだろうか?

死は他者から与えられうるものなのか?
死は自ら選び取ることができるのか?
死の範囲とはなんだろうか?
あるいは、死の責任の範囲とはなんだろうか?

私の死は何によって与えられるのだろう。