Monthly Archives: January 2011

複数の真実

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父が亡くなってから2年半。
彼の死因にこだわっていた。

父の死に様を見て、「彼はこうこうこうだったから」「きっとこれがよかったのよ」と、
そこに何彼と意味を付与しようとする人びとに対して激しい憤りと嘔吐感を抱いた。

「あの人の死に方はあの人らしく立派だった。」

「あの子がどうしてあんな死に方をしたのかしら。」

「あんな死に方をするのも当然だ。」

人は他者の終焉によって、その人生をジャッジする。

「お父さんが今亡くなったことは、あなたにとって何かしら意味があるんだよ。」
と慰めてくれる人たちの気持ちに深い感謝はしたけれど、
まったくもって私はそうは信じていなかった。

そんな意味はクソ食らえ!なのである。
父が死ななければ見出せない使命や意図が私の人生にあったとしたら
そんなものはいらないし、自力で手に入れるから父を死なせるな。

そう思っていた。
これは現在でも変わらない。

父の急逝を機にこう考えるようになった。

人間の生命において、私たちは自律を持って人生を過ごしていくことができるし、
無数の意味あることと、意味のないことが、絡まって進んでいく。
しかし、生まれる瞬間と死ぬ瞬間だけはどうやってもコントロールできない。
死という現象に関してはとりたてて意味はない、と。

「死」、否、「死にゆき方」に意味を見出すのは、地球上の生命で人間だけだ。
それは言語と理性を極度に発達させた異例の動物だからかもしれない。

でも私は思っていた。
道ばたに転がっている雀の屍と、棺に入った父の遺体の一体何が違うのかと。
山の中で倒れている巨木と、人間の死体。一体何が違うのか。
土や海に還るだけなのに。

死を特別視し過ぎだ。

生まれ方はそこまで取り沙汰されないのに。
未熟児や帝王切開で生まれたことで、人格をジャッジすることはない。

意味というものを何にでも与えようとし過ぎだ。

意味をなしえないものもある。

人との出会いには意味がある、すべては繋がっている
という信念を持っていた私にとって根本を覆された。
28年間構築した世界観が木っ端みじんに崩壊し、
条理と不条理の狭間で血の滲むような葛藤を経験した。

最初は瓦礫の上で途方に暮れ、
それから何ものにも向けられない怒りと哀しみに翻弄され、
粉々の瓦礫を修復しようとして絶望し、
新しい材料を集めて1つ1つ積み上げていくほかないと思い知らされた。

1年、2年と時間が経過するうちに、
相反する2つの大きな世界観はいつしか共生するようになっていった。
矛盾が矛盾でなくなった。

一方で、人間の死に様に意味はないという自分の主張と裏腹に、
父の死因にずっとひっかかったままだった。

「なぜあんな風に死んだのか?」

自分が「そうである」と信じていて、他人に伝える考え方(espoused theory)と、
実際に具体的な言動や感情に表出され、espoused theoryとは一致しない
素の自分(theory-in-action)の間に、ギャップがあるのが人間の常だ。
このギャップは他人には割と容易に感知さ れるのだが、
当の本人は無意識で、自分は理想的なespoused theoryを
実践していると錯覚していることが多々ある。

あるいは、ギャップに気づいていてもどうすることもできないのだ。

私は後者だった。ギャップに気づいてたが、埋める術を知らなかった。
ただ、その溝の狭間で痛みを伴う違和感を感じていた。

そして今日。
遺影を見つめていたら、
「どっちでもいいや」
とぽつりと思った。

どう死んだか、何が原因で死んだかは、見る角度によって、感じ方によって変わる。

やっと、自らの主張する世界観を歩き始めた瞬間だった。

原点回帰

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コミュニケーションプロセスデザイナーなどと、何だか捉え所のない仕事をでっち上げてやっていると、「それって何なんですか?」「それで将来は何をしたいんですか?」 「どうしてそれをやろうと思ったんですか?」と訊かれます。

「直観だからよくわかりません。」

「言葉では説明できないんです。」

「積み重ねてきたもので、大きなきっかけは特にありませんでした。」

というのは常套手段な模範回答。まったくその通りだから、私もこう答えることはしょっちゅう。でも一方で、質問を受けるとやっぱり考えるようになります。

それに、せっかく関心をもって聞いてくれた人にできるだけわかってもらえればと思うので言葉にしようとします。自分を観察し、内省し、考え、 感じ、誰かに話してみたり1人でノートに書いてみたり。「ここ (自分の胸に手を当てて)にあるものは何なのか?」を探ってきました。

で、ここ最近わかったことは、コミュニケーションプロセスデザインの根源とは『愛』と『信頼』です!

え?!考え抜いて抽象論かよ?と突っ込まれそうですが、愛と信頼って実践論でもあるんだよね。人間が生きてくために。

どうやって愛を育むか、どうやって信頼関係を築くかという、年齢も性別も職業も肩書きも産業も国籍も民族も関係ない(つまり、どんな場面でも必要になる)コミュニケーションの核を伝える職業?役目?

それが私の思い描くもの。

コミュニケーションプロセスデザイナーを拡張させるべく、今年やりたいと思っている新しい試みの2つ。

  1. 愛する人を失った死を感じ、蓋を閉めてしまった感情を表現するための場。
  2. 自己のセクシャリティに正直に向き合い、パートナーと素直に楽しいsensual relationshipを持つための場。

これを友人に話したら、「生き物の始まりと終わりのことをやりたいんだね」と言われました。

そういやそうだ。

人間含め、生命は生殖によって誕生し、死をもってその肉体は朽ちていきます。

私は、1人1人が死生観とセクシャリティをしっかり育くむことが、あらゆる場面でのコミュニケーションがうまく回る隠し味だと思っています。上司が部下に対して、母親が子供に対して、男の子が彼女に対して、女の子が同性に対して、若者がご老人に対して。

根っこと茎と葉っぱとお花が繋がっているように、私たちの生(性) と死へのまなざしは、毎日の行い(=コミュニケーション)とそこから紡がれる関係性に繋がっていくのではないでしょうか。

Return to the source.

佇まい

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年越しは10年来の遊び仲間と長野県戸隠に行っていました。蕎麦で有名な戸隠の中でも人気のお蕎麦屋さんに並んで年越し蕎麦を堪能し、元旦は温泉で体を温めてから戸隠神社に初詣。

戸隠には思い出があります。ちょうど10年前の2001年、音楽、踊り、旅を通じて出会った仲間達と戸隠で平和のための祭を開催したんです。祭の一週間前にニューヨークの911があり、何の巡り合わせだろうと感じたものでした。

戸隠は一面深い雪景色。手に取ると優しい感触を残すふわふわの粉雪に家々が埋もれていました。宿からスキー場までは板を履いてそのまま滑って行き来できます。

久々に見る豪雪に感動して涙が出そうになりました。別に何ってわけじゃないんです。ただ雪景色を見ただけ。

自然の美しさはストーリーなどいらず、ダイレクトに琴線に触れます。私は昔から荒涼とした崖や岩肌、枯れ木を見てはあまりに綺麗で羨ましく思います。他の存在を必要とせず、ありのままで美しくあれる。自然の型どる曲線美は、生きる以外、何のためでもないのです。

人間だって自然の一部なのですから、ストーリーを語らずとも佇むだけで美を表せるはず。そんな女性になりたいなぁと思います。

キーワードは「触れる」

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2011年。

また1つ新しい年を迎えました。どうぞよろしくお願いいたします。

2月は旧暦新年、4月は年度の始め、7月末はマヤ暦の始め、9月はアメリカでの年度始めなので気持ちを新たにする時期って一年に何度もあるんだけど、西暦の1月1日は世界中の多くの地域で共有しているものだし、小さい頃から馴染んでいるから大事な習わしだなぁ。

私は1979年11月生まれなので数えで33歳になりました。(生まれた時点で1歳で、1980年1月1日ですぐ2歳になるから。)本厄、しかも大厄なるものらしい。厄に科学的な根拠はないと言うけれど、「だいたいこの年齢になると体にガタが来るのよね〜。」という事実の観察に基づいた東洋的統計学なのだと思う。「いや、データなんてとってないけどさ、だってそうじゃん?」というような。人間の自然な成長(=老い)や、社会的立場の変化が影響して、多くの人が心身の変化を経験するのだと。なので、大厄だからと恐れるのではなく、暴風波浪警報的に受け取っていきます。気をつけはするけど毎日びくびく過ごせないし、どんなに事前に対策取ってても結局来ちゃったらそれまでだもんね、ははは。

去年は気や血の巡りが悪かったのかたまに体調が下り坂になったものの、風邪など目立った病気には一度もかからず元気に過ごせたので、今年はもうワンランクアップ元気にいきたいと思います。

今年はCommuniation Process Designerって何なの?ってところの、2009年、2010年でまだ出してなかった引き出しをジャカジャカ開けていければなぁ。私の頭の中ではいい感じにCommunication Process Designerモデルが構築されてきてる。だけど、多面的ポリゴンだし聴覚的でもあるし、何より直観的(五感ですらない)なので、どうやって現実世界(他者がいるところ)に表出させるかがチャレンジ。そのためには言語化が必要になってくるのだよー。言語って言うと文字だけになっちゃうから、記号化、かな。絵や色や音も含まれる。建築士が頭の中にある建造物のイメージを設計図に落とし込むように、「自分」という設計図を引いていくことによって他者に伝えて行く。製図するために色んな術(the art)を習得する。それがコミュニケーション。

話し言葉のコミュニケーション、文字のコミュニケーション、色のコミュニケーション、形のコミュニケーション、音のコミュニケーション、間(ま)のコミュニケーション、身体のコミュニケーション、心のコミュニケーション、魂のコミュニケーション。

自分と誰かのコミュニケーション、文化/社会/経済組織におけるコミュニケーション、自分自身とのコミュニケーション、対面でのコミュニケーション、時空間あるいはアイデンティティをまたいだバーチャルコミュニケーション、民族文化や言語を越えたコミュニケーション。

人とのコミュニケーション、他の動物とのコミュニケーション、植物とのコミュニケーション、土や空気や水や光とのコミュニケーション、星や月や太陽とのコミュニケーション。

この文脈でコミュニケーションを日本語に直すと「触れる」かもしれない。「繋がり」ではない。すでに繋がってるから。繋がってるものものに「直接(もしくは比喩的にか)触れる」ことが私の中では大事。

さらに、Communication Process Designerとして、新しい組織論の実験、新しい経済モデルの実験(現行の経済学ではすでに語れないもの)を試みるための土台を創っている最中なのだけれども、ってことはCommuniation Process Designerというプロフェッショナルを育て、根付かせていくためには、これまでのビジネスで必要/有効であったセールス術、交渉術、ブランディング力、マーケティング力、戦略などは一切関係ないのだ、という至極単純当然なことに今朝の瞑想で気づきました。オペレートしている理論が違う(パラダイムが違う)わけだからね。

西洋哲学、心理学、そこから派生する組織心理学に魅了され、学び、実践してきているので、たまーーーーに「心理学はほにゃほにゃだから、それを使っている君は結局うんぬんかんぬん。」と批判を受けることもあるのだけど、私は心理学が醸成された土地柄とは根本的に違った「日本という世界観」から生まれてきているので、私なりの西洋心理学〜組織論の解釈+応用にしかならない。私がいいと思ってる組織心理学の部分しか使ってないしね(笑)。実際、大学院で行き着いた研究は、組織論の根源である機能主義を完全にひっくりかえすような、東洋/日本人的視点+ラディカルヒューマニズム(機能主義と対置されるパラダイムの1つ)から組織論を組み立て直すとか、西洋と東洋という二項対立からではすでに語れない「井口奈保」という視座を徹底的に素因数分解しながらオリジナルの組織論はどこに向かうのか試してみるという論文だったりする。

新年から話はまとまらないわけだが。。。

Communication Process Designer というものは、私の生き様そのものがブランディングになりセールスになり付加価値になること、なのかもしれないな。うむ。

ある意味アンパンマン。「僕の顔をお食べ!」

違うか。

もう1つ最近思ったのが、Communicationを多角的に捉えていく仕事だからこそ、結婚しても産休とっても「現場から退いてブランクができる」心配がまたーくないどころか、パートナーとの人間関係構築、愛情の育み方、出産、育児は究極の修行の場であり、コミュニケーション力に磨きがかかる絶好の機会でラッキー♪

今年も I will BE Communication Process Designer!