飽きずにまたヴィパサナに行ってきましたin Deutschland.
インド、日本に続きドイツ。ベルリンから南東に車で下るとおよそ4時間でHofという町に着きます。ベルリンの壁が顕在だった当時、ここにも壁が築かれており、同じ日に崩されたそうです。タクシードライバーのおじさんが教えてくれました。1989年11月9日、彼は今と同じようにHofにいたそうです。壁が壊された後、毎週末になると旧東側の人が西側に物見遊山にやってきて、人で溢れ返ったそうです。Hofからさらに車で30分奥地に移動したTriebelという場所にヴィパサナ瞑想センターはあります。
センターは高級ユースホステルのように快適でビックリしました。日本より綺麗だし設備は整ってるし。キッチンはレストランの厨房さながら。使われている食器や調理用具は派手ではないけれど質のいいものばかり。修道院という仕組みが何十世紀に渡り培われてきた土地ならではの、修行所が提供する慎ましやかなる瀟酒さが伺えました。アジアのThe 修行!という雰囲気とは違う。
今回は数年間継続的にヴィパサナ瞑想をしている経験者のみが受けられる「サティパッタナ」と言われるコースで、1日10時間座るのは7日間のみ、8日目に沈黙が終りました。前後合わせて計10日間。通常の10日間コースより2日短いです。なのであっという間。瞑想が深まるのは6日目辺りからなので、ちょっと短いかなーと思いながら6日目を過ごしたのですが、終ってみたら8日間で期待通りの手応えを得て、かなり先まで歩むことができました。(正確に言うと、0日目と9日目も数時間座ります。)
私が学んだ限りで話すと、ヴィパサナ瞑想とは、「すべては刻一刻と変化する」という自然の摂理を、自らの身体の細胞レベルの変化を感じ取れるようになるまで肉体の感覚を研ぎすましていく方法です。この方法を通してシッダールタは涅槃に入り仏陀となったと伝えられているそうです。人間の苦しみは、この世のものが変わらず残り続けるという幻想から始まると仏教では説いています。この幻想が、「これが欲しい」という欲望、あるいは「これは嫌だ」という排除の欲望を生みます。いずれ消えてなくなってしまうものと分かっていれば、これが欲しいあれが要らないという欲望に苛まれずに済むけれど、つい私たちはいつまでも続くものと誤認しているから欲望が沸き続ける。
この感情的欲求の発露と身体感覚は同時に起こっていると言います。お腹が空いた時。苦手な人が来た時。美しい景色を見た時。病気で苦しんでいる時。いつでも身体は何らかの感覚を醸成しています。仏陀は、欲望が満たされず募るほどに身体感覚の癖が体に刻まれて残っていき、それが諸々の現象に対する人間の反応(怒る、悲しむ、喜ぶなど)を引き出すという風に解いています。
現象→意識による認識→身体感覚→感情的反応(思考や行動も含む)
こんな感じかな。ちゃんとした仏教用語を参照していないのであしからず。あくまで私個人の理解です。
現象が起こることは変えられません。生きている限り意識があるのも変えられません。これは人間の性質です。なので、仏陀は身体感覚を捉えることで、次の段階の反応(サンカーラと呼ばれる)を摩滅することを考え、その手段として瞑想を開発していったと。
ヴィパサナ瞑想をしていると着実に身体感覚が研ぎすまされていきます。通常の意識レベルでは感じられない体内の細かい肉や骨や血流、内蔵を感じられるようになり、さらにそのような境界線を越えたレイヤーの繊維の繋がりを感じ、さらに感覚が鋭敏になると泡粒か砂粒が集まっては崩れ去っていくように身体内を感じ取れるようになります。体のどこの筋肉や神経がどこに繋がっていて、どのように反応し合うかを体で掴めるようになります。経絡やチャクラの位置、あるいは西洋医学での筋肉の付き方や神経経路が感じられるようになる。
例えば私の体は、単純にこの数年間で相当柔らかくなりました。生まれつき左股関節亜脱臼という病気(?)持ちなので、股関節、骨盤を取り囲む肉の付き方が歪んでおり、腰が曲がっていました。簡単に言うと猫背。背骨の下の方で折れ曲がってしまっている。この周辺の筋繊維が大幅に解きほぐされ、お尻から頭の上までほぼ真っすぐに背骨を立たせて座ることができるようになりました。これって椅子だと意識すればできるんだけど、床に直接足をまっすぐ伸ばして座ったり座禅を組むと途端にできなくなる人が多いはず。それができるようになりました。
身体の奥の奥まで意識的にアクセスできるようになり、身体感覚を詳細に詳細に研ぎすましていくと、水を飲んだ時に水が喉を通り、食道を下り、胃に流れていく重力で首が自然にのけぞってしまうくらいに敏感になります。体の内部を通る毛細血管の脈動に全身がシンクして振動しちゃったりします。パンを口に入れるともそもそモゴモゴするので牛乳を流し込むと、パンの状態が一気に水分を吸って変容し、どんどん形状が柔らかくなり液状化し、体積が小さくなっていく、そんなパンを一口放り込み飲み込むまでの一瞬の現象を微細に感じ取ることができるようになります。呼吸を1つすると、吸い込んだ空気が鼻孔を通り、気管を通り、全身に広がって体に吸収されて私の身体を作り、生かしていく様子がわかるようになります。違う土地の空気(粒子)を吸い込むと、私の構成要素は一呼吸毎に変わっていくのだということが体感できます。
このように、体の奥に刻まれた反応という記憶と、それと一緒に刻まれている心理的、理性的な記憶が、常に流転している物理現象だと知覚できるようになると、普段の鈍感な感覚では「肩こり」「腰のだるさ」「頭痛」というように認識されて痛がっていたものが、つぎつぎ溶解し、素粒子的になり、そもそもそのようなしこりはないというミクロレベルに辿り着きます。小さな小さな小さな動きを捉えることができると、「凝り固まって微動だにしなかった部分」は一気に雲散霧消します。肉体的にも精神的にも。
そして、どのような痛みや苦しみがある時にも、自分の身体の中、心の中の微かな平安な振動を感じ取ることができるようになってきました。少しずつ。少しずつ。
これまで自分を形作っていた、時には支えてくれていたアイデンティティを溶解し、失わせ、手放す。そのためにヴィパサナに行ったし、ベルリンに来たんだと改めて気付きました。アメリカに渡った時、私は一度アイデンティティクライシスに陥りました。自分が認識する自己があり、その自己が表現し定義する日本語での私がいます。しかし、アメリカでは自分の母国語ではない英語を使って自己規定を行なわないといけないので、言語がおぼつかなかった初年度に私の認知内で不調和が起こりました。英語が母国語である他者が認識する私の英語(=わたし)と、私自身が規定する日本語での自己の間には大きな大きな深い溝があり、自己というものが捉え切れなくなったんです。
今ではその経験が実に貴重だったし、1度崩壊し、再び創造していく過程を私は存分に楽しみました。その体験を違う文化/言語圏に入ることで再びしたいと思ったという動機も渡欧にはありました。だから、瞑想をしながら、「ああそうか、だからか。」と納得していました。
ベルリンに来る飛行機の中で雑誌ニュートンの『生命とは何か』という特集を読んできました。このテーマを出発の友にするなんて啓示的だなと思いながら。
シュレディンガーは生命には負のエントロピーが働くから生命体を維持できるのだと言いました。ヴィパサナ瞑想は、負のエントロピーという概念そのもの、その概念が機能するためのパラダイムを変えていく業(わざ)なんだろうな。
そうそう、瞑想6日目にお庭でウサギを見かけました。花園で遊んでいたところを私に見られて急いで逃げて行く後ろ姿が印象的でした。猫もいたらしいけれど、私は出会わなかった。