繋がる官能

去年の6月に日本を出てからずっと中南米を旅しているソウルメイトに、

「なんか、不思議だけど全てが繋がっている(奇跡と軌跡)空間にいるね。
なほはこの空間に入ることが多いね(笑)
多分、その星の子なんだね。
星の名前が今はわからないけどね。」

と言われた。

最初は私もその名がわからなかったけれど、ふと閃いたのは、 “Sensuality of Connectivity” というフレーズ。「繋がっているということの官能・魅惑」といったところだろうか。

夕べ、インド出発前は最後となるvipassana瞑想に行ってきた。そこで実に不思議で、かつ自然な小さな奇跡が起きた。

瞑想の始まりと終りに、僧侶が唱える感謝の歌。2座目の終りに僧侶が歌い始めると、部屋の右奥の方に、ふわっと何かの気配を感じ、それから女性が囁く声が聞こえてきた。瞑想中は言うまでもないことだが、vipasannaでは休憩中の私語、目配せ、ボディランゲージもすべて御法度。私は、参加者の1人が呟いたのかと思い、「どうしてもう終るのに話し出すんだろう。瞑想状態が深くなり過ぎて、精神的に不安定な場所に行ってしまったのだろうか?」などと考えながら、僧侶の声と女性の声が耳の奥を流れるに任せていた。僧侶の祈りが終り、2座目が終了。その後、3座目も滞り無く終った。

僧侶は、5年ほど前にアメリカの砂漠で出会った日本人の静和尚。真言密教の出だ。彼が2年前から始めたのが東京vipassana道場。参加者全員で部屋を片づけていると、静和尚が私に「誰か歌っとったな。」と話しかけてきた。瞑想会は区民会館を借りているので隣の部屋では婦人会やら老人会の催し物をやっていた。近くの部屋でカラオケを元気に熱唱するおば樣方がいらっしゃったのでそのことかと思い、「あー。あっちの部屋の?」と返すと、

「いやいや、そうじゃなくて。」

「この部屋で?」

「うん。」

と言われて、2座目の最後の出来事を思い出した。女性の声。

「俺がサン(感謝の歌)を歌ってる時に、一緒に歌い出したやろ。」

「ああ、そうだね。女の人が一緒に囁いてたね。」

私たちの会話を聞きつけた他の参加者たちも加わってきた。

「誰か歌ってた??」

「隣の部屋のおばちゃんたちのカラオケでしょ?」

話を進めていくと、部屋の中にいた6名のうち、静和尚、私の友達、私の3人は女性の歌声を聞き、他の3人は聞いていないことがわかった。

そして静和尚が

「あれは神さまやん。」

と言った。

静和尚は過去にも何度か同じ体験をしていると言う。修行中、何十人もの僧侶とお経を唱えていると、ごくたまに神様が遊びに来て挨拶したり、一緒に歌い出したりすることがあるそうだ。さらに、彼が2年前にインドへ旅したのは、静和尚企画の音楽祭の最中に(彼はロック坊主でもある。)ヴィシュヌが降りてきて大音量で歌う声を耳にして、「インドに行かな!」と直観で思い立ったからだそう。彼曰く、「呼ばれたんやな。」

「ナホがインドに行くから祝福しに来たんやろ。歌ってたからサラスヴァティ(技芸の女神。日本では弁財天)かもな。」

さらりと言われた。

サラスヴァティは以前、アートフェスティバルでモチーフにしたことがあったので馴染み深い。サラスヴァティを表す梵字を左腕に描き込み、舞を踊った。それに、地元の鎌倉や江ノ島には弁財天の社が多く、小さい頃から身近な神さまだ。

私には霊感はまったくない。超常現象には疎いし、「見える」という類いの人にもいたって辛辣(個人的に信頼を寄せている例外は3名いる)。心理学(トランスパーソナル、催眠療法etc.)や東洋哲学をアカデミックに研究してきたバックグラウンドが、逆にニューエイジ系の物事を批判的かつ冷静にジャッジさせる。

しかし、あれは肉声だった。現実に、確実に、声が響いていた。幻聴でも夢うつつでもない。だから参加者の誰かだと当たり前のように思ってすぐに忘れたのだ。

あの「ふわり」という人の気配。そして囁くような女性の歌声。恐怖や不気味さは微塵も感じさせなかった。時間が経つごとに、興奮と畏怖がふつふつと沸いてきた。

「ナホもインドに呼ばれてるんやな。いい旅になるで。」

という静和尚のあっけらかんとした表情が、あれは現実だったことを裏付けていた。

今回のインドの旅の目的の1つは10日間のvipassanaを受けること。

2005年頃からカリフォルニアで徐々に認知度を広めていたvipassanaの存在はずっと知っていた。ただ当時は、曹洞禅に集中していたのと、10日間隔離された特別な場所で瞑想をして神秘体験をしたと錯覚し、その後日常に帰ってから瞑想を続けるでもなく耽溺した生活に戻る人びとをたくさん見てきていたので、私はまったく関心を示さなかった。10日間みっちりより、着実に日々の生活に織り込んでいくことが重要だと感じていた。

静和尚はインドに「呼ばれて」旅をしている最中にvipassanaに出会い、その衝撃から修行を続けていくことを決意。日本に帰国して東京vipassana道場を主催することとなった。彼の思いは私と似ていた。10日間休暇をとって山奥に籠ることのできる現代人は、特に日本では非常に少ない。だから、平日の夜に3時間vipassana瞑想をする場を提供することにより、日常において修練することができる。

真言密教の僧侶であるにもかかわらず、宗派も国境も越えて修行に専心する(カリフォルニアで私に禅を教えてくれたソウルマザーとその旦那様・秋葉老師は、偶然にも静和尚の禅の師匠でもある)、信頼する彼が開く場であることと、新宿で平日夜に開催する裏にある彼の心情に共感。2年前、サンフランシスコから帰国して間もなかった私は、どうにか日本に拠り所を見つけるべく葛藤しており、迷わず参加し始めた。

そんな東京vipassana道場での夕べの出来事。静和尚との縁。弁財天との縁。vipassanaとの縁。インドとの縁。

縁起が絡まり合い、表しようのない魅惑的な音色を奏でる。

サラスヴァティの歌声のように。

セクシャリティー、センシュアリティー、そしてインド。

明けました2月。

前のブログエントリーにも書いたのだけど、私が創っている「コミュニケーション・プロセス・デザイン」という概念/アプローチの根底には、ビジネスとかプライベートとか政治とか教育とか医療とか、子供とか大人とか、人間とか動物とか植物とか、私たちの認知が生み出す境界線を取っ払ったところで、生きとして生けるものとしてコミュニケーションの本質を捉えたい欲求がある。

愛情と信頼ある関係性を築くためのコミュニケーションをしましょ、ってこと。

愛情は自分へ向けて。

周りの存在へ向けて。

でもそれは机上の空論ではなく、行動に落とし込める実践哲学。

だから、ビジネスの文脈で翻訳コンニャクなら、組織変革のコンサルティングになったり、グローバルリーダーシップの話になったり、イノベーション創出の場作りになったり、おもしろ人材育成トレーニングになったりする。

教育の文脈に翻訳コンニャクならば、大学生にプロジェクトマネージメントって何よって一緒に考えたり、小学校の先生にグラフィックファシリテーション教えたり、子供と一緒にガラス窓に絵を描いたりする。

個人のライフスタイルの文脈に翻訳コンニャクなら、キャリアチェンジのコーチングになったり、米MBA合格に向けて「俺って何者?」的英論文をサポートしたり、体と頭と心をシンクさせてあげるお手伝いをしたりする。

それ以外のたくさんの場面でも翻訳コンニャクを使う。

愛情と信頼を生み出すコミュニケーションをするための基盤には、「セクシャリティー」と「死生観」としっかり向き合うことが不可欠だという結論に今のところ達しているので、この2つのテーマにゆるっと切り込んでいきたい2011年。

本当は「センシュアリティー」という言葉を使いたいのだが、カタカナ語として聞き慣れないからセクシャリティーにしている。もっと本当を言うと、カタカナ語も撤廃したいので「何かないもんかねー」と思っていたら、昨日、尊敬する方とランチをご一緒した時に彼の口からこぼれ出てきた。

「教育って色っぽくて魅力ある人間を育てることと言い換えることもできるよね。」

ああーーーっ、それそれ!!

誰でも魅力ある人になりたいし、誰でも魅力ある人と一緒に時間を過ごしたい。会社の上司でも、バカやる仲間でも、恋をする相手でも。そして親になれば、子供に魅力ある人に育って欲しいと多かれ少なかれ感じるのでは。

私たち日本人の馴染みある場所で、ビジネスリーダーに対して「色っぽい」という表現を使うことはまずない。女性リーダーに対してであればジェンダー問題も出てくるからなおさらのこと。

組織学の中のリーダーシップ論で、フェミニズムの寵児であった女性2人の学者が “Leadership” という言語を脱構築していく論文を読んだことがある。ポジティブな意味合いで利用されるリーダーシップ”Leadership” という単語と、ネガティブな意味を含みやすい女性を揶揄するセダクティブ(魅惑的な、誘惑する)”Seductive” という単語。実は、辞書内の定義や2つの単語が使われている様々な文章を比較すると、両単語の持っている性質は驚くほど同じ。単語を入れ替えて文章を読んでも意味が通じるくらいなのだ。

言語的な意味合いは同じであるにもかかわらず、リーダーシップは好意的に、セダクティブは否定的に解釈されるのは男性優位な社会構造の影響に他ならない、という論旨。

これがニュートラルに受け取られてるのがフランス。色っぽさ、艶っぽさを性的な意味としてだけではなく、性別関係ない人間の魅力として捉えている。というより、性的な魅力が社会的にタブー視されていず、ビジネス、政治、文化などの分野に関係なく、普通に1つの魅力要素として見なされているらしい。”sensualite”  という単語だそう。

やっぱ、センシュアリティーって言葉の方が私が言いたいことにしっくりくるなぁ。それを日本語化すると「色っぽさと魅力」になるのだなぁ。誤解されやすい響きだけども。

色っぽさ、魅力が漂ってくる人間になるには、セクシャリティー/センシュアリティーと死生観の構築が大事。

このポイントと関連があるね、と彼と話して盛り上がったのが、私たちの中にある心理学的な女性性と男性性。双方のバランスが取れている人、女性性を受け止め表現できている男性と、男性性を受け止め表現できている女性は優れたリーダーですよね!という体験談。

自分の性的なニーズを満たすためには、女性性と男性性を両方活性化させなくちゃいけない。それができている人は個としての自尊心と自信が生まれ、自己へ溢れる愛情を注げ、最終的には「自分」とか「他人」というアイデンティティみたいなものから解き放れた段階に進む。

ユング心理学、人間性心理学、社会構築主義、脱構築、組織論、リーダーシップ、教育、セクソロジー、コミュニケーション。大学時代から辿ってきた色々な分野がネットワークになってきてるわ。

そして、昨日のランチでもう1つ示唆的な言葉をいただいたので最後に記しておく。

「女性性と男性性の秘密はインドにあるかも。」

2週間後にはデリーだ。