2013年4月25日に。

ちょうど1ヶ月前の7月11日、天啓がくだり、2013年4月25日にベルリンへ渡ることを決めた。2008年の同日、私はアメリカを去り日本に戻ってきた。父親の命日の翌日のことだ。カリフォルニアの深夜に、日本の兄から父の訃報の電話を受け、錯乱状態の中、どうやって飛行機を取ったかはあまり覚えていない。成田に降り立った時、すでに「日本は3年」と決めていた。縁があってもう少し長く居ることになっているが、丸5年経過する来年の同じ日に、日本を離れることにした。

振り返れば、この4年間は父の死によって突き動かされてきた毎日だった。無慈悲と絶望を知り、あらゆる感情の極限を体験し、不信に苛まれ、己を責めた。3年が経過する頃、やっと崖から這い上がってきた感覚を得られるようになった。彼の死に様は28年生きた私を粉々にし、今の私の骨格を形成したと思う。

父はいくつか不思議なものを残していた。1つは死んだ時に持っていた財布の中身。生前、私と最後に会った日に行ったコーヒーショップのレシートが入っていた。物持ちがいいというか、何と言うか。もう1つは小説だ。病気になってから死ぬまでの1年半(実際に動けるようになってからなので最期の半年)で、10本ほどのフィクションと、6〜7本のエッセイを書き残している。エッセイは死後すぐに読んだが、小説にはなかなか手が付けられず、ずるずる時間は過ぎていった。今年に入って読む決心がつく出来事があったので、約4年振りにのろのろとフォルダを開くこととなった。

大学を卒業して間もなくアメリカに渡った私は、そのまま学生を続け、とうとう社会人になるかという間際に父は逝ったので、1人の人間としての彼と接する機会は一度としてないままだった。代わりに今、彼の小説を通して、彼という人間が何者かを学んでいる。

今月は、3月に他界したアメリカ時代の親友の新盆だ。出張がたまたま彼の実家のある奈良であったので、訪ねに行った。新盆特有の「臭い」が仏壇にはあって、2008年の夏を思い出した。彼が息を引き取る直前まで寝ていたベッドに寝泊まりした。部屋にはアメリカを急に去ることとなった私が彼にあげたスピーカーがあって驚いた。これまた物持ちのいい人だ。家には彼の気配がするとご両親が仰っていた。父が死んだ当時は、私が背負っていると言われたこともあったから、気配の話はなんとなくわかる。実際、翌朝、起きてベッドで座っていると、ドアをコンッとノックされた。「はい!」と返事をしたから、満足したんだと思う。

父も今ごろ、安曇野の家に戻ってくつろいでいるのだろうか。今年はお彼岸に会いに行く。その頃までには、すべての小説を読み終わっているかもしれない。