いざ死ぬとなったら平静でいられないのはわかっているけれど、これまで死を自我に内包せんと全身全霊やってきたので、それなりに満足のいく距離まで近づけている。
私個人的には、自分がどのように死んでも後悔しないし、死のプロセスに入った時に(それが瞬間的で準備ができないものだとしても)なるべく恐れずpeaceful mindに繋がっていられるよう訓練してきているので、例えどんな死に方だとしても家族や友人には、死に方にまつわる変なストーリーを後からくっつけて、やれ悲劇だ可哀想だ、いやいやよく頑張ってあの人らしかったなど言わないで欲しい。後悔も納得もしないで欲しいと思う。
病気に事故に自殺に他殺に、disabledになって死んだも同然になったり行方がわからなくなったり。自分がどのような最期を遂げるか、いろんな死に方を日々想像する。でも、自分の思想哲学を毎分毎秒の行動や有り様に反映させる「人生をアートする」生き方を地味〜にやってきて、この命にとことん満足しているから(すべての願いや欲望は叶っていなくとも、それは満足と相反しない)、どんな死に方でもあまり変わらないなと感じるようになってきた。どのように死のうともあまり関係ないのだ。
死のプロセスは長くて数年を要するだろう。でも、それで残りの生きてきた十数年、何十年の人生を全部ひっくるめて語られたらたまったもんじゃない。人間は、他者の死に際して自分の悲しみや喪失と折り合いをつけるために、「この人の最期はこれこれこうでこうだった」みたいに意味やストーリーをあてがって治癒するわけだけど。死にひっぱられて残りの人生をさくっと記号化するなんてないよなー。
今死ぬのと20年後に死ぬのと、どれくらいの違いがあるのだろうと素直に考えてしまう節がある。決して他者には抱かない問いかけなのだけど。だって、私は他者の命(の長さや質量)に言葉を挟んだり影響を与える立場ではないから。あくまで自分の話だけ。死にたい願望なんてないし、生きることは素敵だ。もうしばらくは生きているだろうと漠然と考える無意識の私は確実に存在する。「しばらく」が数週間なのか50年なのかはわからない。でも、今夜ではなさそうだとは思っている。今夜の可能性だってあるのにね。
何が言いたいのかはよくわからないけど、ほんとにね、至高を体験してきているんだよね。特にベルリンに移住して、100%自分の哲学をひたすら毎日実践する暮らし方に持っていってから。そうすると、動物の持つ純粋な死への本能的恐怖に従っていられるようになって、そうすると不思議と人間社会の人間意識が構築するたくさんの恐怖が減っていっている。己の死を語ることも、その一つかもしれない。