思考の糸車

 

意識を明晰に「ここ」に静かに留まらせようとしても、気づけば思考の糸車はまわって糸がたわんでいる。糸のたわみに気づくたびに糸を巻き戻す。しかし数秒後には意識はまた思考の旅に出る。どういった流れで思考のプロセスが始まるのか足跡を辿ると、知りたいという欲求と伝えたい(=知ってもらいたい)という欲求が根底にある気がした。多くの種類の思考の性質を解析すると、知りたいという欲求と伝えたい(=知ってもらいたい)という欲求に帰属するのではないだろうか。不安や恐れといった感情も、知りたいけれど知らない、わかっているべきなのにわかっていない、伝えたはずなのに伝わっていない(ようだ)、といったダイナミクスが関係している。死への恐怖は「死ぬかもしれない」「もう生きていけないかもしれない」という、知っておきたい生の確率がわからないからだと捉えられる。

話が脱線するが、死への不確実性は常に在る。いつでも「死ぬかもしれない」のだ。にもかかわらず、心身が「健常」な状態の時は、死ぬかもしれない恐怖に脅かされずに「正常」に「平静」に過ごすことができる。ということは、私たち人間は、知りたいけれど知らないことを、あたかも知っているかのように錯覚してい生きることが前提条件として必要ということになる。人間の精神の健全さは誤認に依っているわけだ。この誤認の上に「生きたい」という欲求が加わることで、人のいのちは(死に向かって)前進していく。さらに余談だが、生きたいと逝きたいが同じ音なのは面白い。

話を元に戻す。睡眠中に見ている夢の間も意識を明晰に「ここ」に静かに留まらせる訓練をしていると、夢がまったく起きている(waking)日常と違う別世界ではなく、夢もまた思考であることがありありとわかってくる。起きている間の思考と寝ている間の思考(=夢)は、もちろん性質は違うし脳科学的にも異なる現象だろう。しかし夢は、過去の体験、読んだ物語、学んだ知識、ずっと胸にしまっている感情、家族との夕べのやり取り、大好きな音楽が与えてくれるビート、1年後の自分の状況への懸念、肩にのしかかるプレッシャーなど、日頃私たちの頭=思考を埋めつくすものが、違うバランスで配合されて出現しているに過ぎない。違う配合だからまったくの別世界になるのは、同じ材料を使っても分量と混ぜる順番と変えるだけでスポンジケーキにもパイ生地にもクッキーにもなるお菓子と似ている。火加減で丸焦げになる時があれば、生焼けで液体のままの時もある。まったく違う材料が多少は夢に加わっているだろうが、ベーキングパウダーほどのものではないだろうか。

お菓子作りのような毎日の夢を、まずはどんな材料で何を焼いたのかを明晰に把握する。それから、ではさとうきびから作りましょう、小麦粉から育てましょう。じゃあどの土地の土と水がいいですかね?と一つ一つを手に触れてawakened していくのが、私が取り組んでいるチベットドリームヨーガかもしれない。意識のレイヤー自体を変えることで(大きく3つの意識レベルと対応する身体レベルがあるとされる)、夢の性質と中身をトランスフォームさせ、人間本来が持つ自然体の意識に近づいていく技だ。

 

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