現実界に戻ってきた。今回もすごかった10日間。
3月にダラムサラのヴィパサナセンターで出会って、たまたま隣のゲストハウスに住んでたと発覚した日本人の男の子と、京都センターで再会するところから始まりました。どんな確率。
体がどんどん開いていく感じが最高に気持ちよく幸せ。今回の10日間でまたプロポーションが変わり、体内のダイナミズムも変わり、身体のリズムが精神へ浸透していきます。
10日間座り続けるのは理に適っていると思いました。最初の1週間は瞑想中に妄想、回顧、分析、明晰夢、幻覚、睡眠の嵐。7日目からようやっと煩悩がほぼ枯渇し、瞑想のみが立ち表れるようになる。
瞑想は様々な意識レイヤーへの分岐点。
- 瞑想
- 睡眠
- 明晰夢
- トランス
という4つの状態を行ったり来たり。この4つの意識状態の差は、眼球運動(黒目がどの位置を向いているか)で出るのではないか、というのが実体験観察から導いた仮説。(眼は瞑っている状態で)黒目の位置が、
- 瞑想=両眼とも下方
- 睡眠=両眼とも上方
- 明晰夢=両眼ちぐはぐな方向で激しく動く(REM)
- トランス=左右の眼がそれぞれ違う方向 、あるいは両眼とも真っ正面に固定、かな。
瞑想中、ガクっと瞬間だけ寝入ってしまう時があって、「なんで0.1秒前まで瞑想してるのに瞬時に眠りに落ちるんだ!」とその瞬間を捉えてやろうとしたのが事の始まりでした。
この4つのレイヤーを深く研究しているのがチベット仏教/科学。死とセクシャリティーという人間の実存に関わるが、社会的にタブー視されているものをもしっかりと受け止めた理論体系と実践法です。自分の人生のテーマのすべてが含まれているチベット仏教。何かの縁を感じずにはいられません。
それから、人間の精神の中にある女性性と男性性は、身体的には利き腕利き足側が男性性を司り、反対側が女性性を司るのではないだろうかという仮説も生まれました。少なくとも右利きである私自身は、肉体の内部を探る中で、右側に男性性が、左側に女性性が棲んでいるように感じました。
「あるがまま」とは「在るがまま」であり、また「有るがまま」でもある。ということは「無いがまま」もまた然り!ということを閃いたのが6日目か7日目。
目から鱗体験の一つは、ハートチャクラに直に触れたこと。銃弾が埋め込まれたような尖鋭さで、ドクドクグリグリしてた。チャクラって中医学のツボのようなもので、幻想でも魔術でも何でもなくて、人間が感情を「凝り」や「痛み」として溜め込む最奥のポイントなんだと知りました。感じられるんだね。
仏教には次のような考え方があります。
- 意識(awareness)
- 感覚(sensation)
- 認知(perception)
- 反応(reaction)
人間が苦しみ、業が生まれるのは2の感覚の段階で、人生で培ってきた経験や思考パターンを元に「いい」「悪い」「好き」「嫌い」「気持ちいい」「気持ち悪い」と判断を加えてしまい、さらに、その判断に沿った反応をするから。例えば、2の段階で「痒い」と感じ、3で「痒いのは不快だ」となり、4で「掻く」という行動を取ります。「痒い」という身体感覚に、「不快だ」という感情/理性判断を加えることで、苦しみを2倍にしている。だから、2の段階で、感覚を純粋な感覚のまま観察し、静かに受け止めることで、3のジャッジュメントに至らないようにします。ということは、私たちの感情の起源は、すべて物理的なセンセーションということになります。センセーションが皮膚に近い部分で起これば、明らかなので私たちは痛みや痒みとして捉えます。でも、体の奥の方で微々たるセンセーションが生まれた時、鈍った感覚器ではそれを身体的感覚としては認識できず、感情というものとして捉えられるのではないか、と思いました。実際、ヴィパッサナをやっている間、獏とした捉えどころのない胸の周りの落ち着きのない焦燥感を突き詰めて観察して奥へ奥へと貫通していったら、ハートチャクラの抉られるような煮えたぎる痛みに辿り着いたのです。
以前、瞑想中に、頭皮から頭蓋骨へとセンセーションを追っていたらフッと無感覚状態に入って「ここが脳みそか!」と気づくという体験がありました。でも、脳みそには到達したけれど、感覚が十分に研ぎすまされていなかったから脳みそに生じるセンセーションは感知できなかった。完全なる無感覚。今回は、ついに脳を物体として感じられました。
脳みそのセンセーションは至極繊細。筋骨の部分は固い分、ブルブル震動してるし圧力や温度の上下をよく感じられるんだけど、脳みそって柔らかいせいか、なんとも掴みどころがありません。特徴的だったのは、脳みそを感じてる時は、体が自然に八の字を描くようにゆらゆらと揺れ始める。無重力状態みたい。