わたしの家は、急勾配の坂の中腹にあった。
自転車で帰るときは辛かったが、寝室の大きな窓から見える景色は格別だった。まっ白い壁の石造りの家が、長い坂道に沿って連なり、まっ青で雲一つない空と、照りつける太陽の光が反射して、町は息づいていた。はす向かいの角には小さなリカーショップがあり、店主とその息子たちは日がな店先でひなたぼっこやキャッチボールをしていた。道路に面したその窓から、恍惚とするほどに透明感がある、青い空の下で毎日を生きる人びとの姿を見ると、まるで小説を読んでいるような気分になった。あの空の色は、日常をドラマチックに色付けた。
しかし、君を最後に見た日、一体空はどんな色をしていただろう。
雨は降っていなかった。いつものように青と白に照らし出された明るい世界だったはずなのに。記憶は茫洋とし、でたらめだった。君は、チェックインカウンターの列に並んだわたしを見送りに来たが、あまりに長いので休みに行くと言い、ゆっくりとたどたどしい足取りで遠ざかって行った。背中を微妙な角度に少しだけ傾げたのが「じゃあ、また。」のサインだったのだろう。人混みに消えていく君に向かって、大きな声で呼びかけようかとも思ったがやめた。振り返らないのはわかっていたから。
それが最後だと、君は知っていたのだろうか。
君がいなくなった後、君が当時持っていた財布を見つけた。中を見るのは躊躇われたが、そのまま放っておくわけにもいかないと開けてみた。喉の奥の筋肉がひきつってきゅっと鳴った。そしてこの目を疑った。わたしを空港まで見送りに来た、まさにあの日の日付のレシートが1枚入っていた。空港へ向かう車の中で、わたしと落ち合う前に立ち寄って軽くランチを済ませたと君が話していたカフェの名前が記されていた。1年以上も前のものなのに。どうして?途端に、記憶は残酷過ぎるほど鮮やかに蘇えり、胸を締め付けた。どうして君はこんなものを後生大事に持ち歩いていたのだろう。想像だけが駆け巡って、思考は行き詰まり、頭がくらくらした。だけど、どうしても空の色が思い出せない。
克明に刻まれた、色褪せた記憶。
今日も窓から見上げた空は、どこまでも高く突き抜けた青だった。来る日も来る日も、鮮烈な空の色が目に焼き付く。それなのに、あの日の記憶が塗り替えられることはなかった。
色がないまま、立ち止まっていた。