ちくま学芸文庫より出版されている『ニーチェは、今日?』(”Nietzsche Aujourd’hui?”)は、1972年にフランスで行なわれた、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ジャン・フランソワ・リオタール、ピエール・クロソウスキーという4人の巨匠による「で、ニーチェってなによ?」という討論会を収録した本です。
クロソウスキーの『悪循環』
リオタールの『回帰と資本についてのノート』
ドゥルーズの『ノマドの思考』
デリダの『尖鋭筆鋒の問題』
と、合間合間に解説が入るという編成。
最初にこの本を買った動機はデリダだったのだけど、数年経った最近ひさびさに手に取ってみて惹かれたのは「ノマド」という文字。既存のキャリアパスを踏まず、既存の産業分野に属さず、企業組織に属さず、しかも物理的に、日々あちこちのオフィスとカフェと自宅を行ったり来たりしている自分の働き方がノーマディック。そして、その関係から松村タロさんと「ノマドワーキングスタイルの実験/研究したいね」という話をしていたこともあって、「ノマド」は気になるキーワードなんです。
『ノマドの思考』はドゥルーズの視点から「(当時の)現代に生きるニーチェ主義者ってどんな人だろうね?」ということを解き明かしています。ニーチェの著作は超絶難解なので私の口から語ることはできないけど、『ノマドの思考』は割とわかりやすく書いてあって、「へー。ニーチェってそういうこと言ってたんだ」という発見がありました。ニーチェっていうとネガティブでペシミスティックな理論を構築するという印象の哲学者だったけど、意外とポジティブ。
結論から言うと、
「私ってドゥルーズが言うところのニーチェ主義者かも!」
です。
ドゥルーズ曰く、
ニーチェにとって社会とは、法、契約、制度という3つのコード(共通の暗号。決まりごと)に従ってまわっている人間を縛る官僚的構造です。法とは文字通り法律であったり宗教の聖典のこと。契約とは例えば、物がお金に等価値で交換されるという資本主義でのルール。制度は、家族だったり教育だったり、社会保障だったり軍隊だったり、社会を秩序だって構成するものものとそのメカニズムのこと。
これらって、人間が集団行動していくために必要とされているものだけど、人間が生まれながらにして持っているものを覆い隠し、触れ合うことを難しくしてしまいます。反対に、人間はコード(意味/記号)に従ってお互いを「翻訳」したり「解釈」したりしています。
そこからの逃走、脱コード化、をニーチェは試みます。脱コード化とは、(3つの)コードが縦横無尽に走る社会という枠を越えて純粋なる「外」と直接接続すること。「外」との関係にこそ、人間のありのままの必然性があるとニーチェは感じていたようです。
決まったコードから解釈されることをせず、もっとも流動的に、活動的に、固定されずに生み出されている運動は、法、契約、制度化されていない社会の枠組みの外からのみやってくる。「脱領土化」という言葉にもなっています。
ドゥルーズは、ニーチェのこのような、既存の社会に違和感を感じて外から運動がやってくるという思想を「ノマド的」と表現しているらしい。
興味深いのは、ドゥルーズは自分の属する西洋統一国家と対比させて、アジア諸国の原始的な農村共同体を基盤とした体制について触れているところ。農村共同体の領土は、書記、神官、役人を率いた専制君主に支配され、固定化されているけれど、その領土の周辺では、遊牧民的なもう一つのまとまりが形成されていて戦争している。戦争とは異なるコードを持ったものたちの敵対。つまりは、領土内外でコード化と脱コード化が同時進行している状態ってこと(p.185)。
話を戻して。
遊牧民のように戦いながら移動していくノマド的生活者もいるけれど、ノマド的とは地理的移動に制約されない、とドゥルーズは言っています。国家社会の敷くコードから逃れ、同じ場所で生き続けるためにノマド的生活を送る人もいる(p.188)。そういう人たちは社会を内から作りかえていくというより、自分の思考を外と直接繋ぎ合わせていきます。あれやこれやと言葉を使って定義し、固定化してしまうのではなく、流れるままに意味とは反対の方向へ進んでいく。
人間だからきっと、新しい意味記号を作ってしまうんだけれど。
ドゥルーズの紐解くノマド的なニーチェ主義者。革命家や政治家として国家装置を転覆させようという野心ではなく、既存のコードとは離れて勝手気ままに、「枠」から「外れた」自由奔放な思考回路で、周辺でわらわらと共同体をつくってムーブメント(運動)を起こそうとしている自分と仲間たちのことみたいだなと感じ、ニーチェに初めて親近感を抱きました。