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Make Our Life A Piece of Art

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To get started, I would like to toss a question to us.

“Can we really walk on two feet?”

Yoga and meditation, by means of intentional or unintentional breathing, gradually alter physical alignment of our body. Twisted bones and tweaked muscles are unlocked, flexed, and get stored back in the right places.

The forward-bent shoulders, narrowed chest, stooped spine are opened up, stretched out, and become more and more straightened. When my head, neck, shoulder blades, spine, lower back bone, and hip joints are firmly aligned, I notice a difference in my walking. I become able to walk more naturally in a balanced manner. I am stunned to learn how distorted my walking was. I have failed to be bipeds for the past 30 years.

What we normally do everyday for a number of years. What we undoubtedly believe that we are capable of doing with excellence. Our life is accumulation of such things. Walking. Eating. Seeing. Hearing, and so forth.

Yet, can we really say so?

Do we really walk on the two legs? Do we really taste food on the tongue? Do we truly see things with our eyes?

Are we fully connected to what we are intrinsically given? What does it mean to be authentic? How can we stay true to ourselves? I have been searching for it.

What is the purpose for our life? It could be for the earth in 100 years. It could be for the next generation. It could be for giving a positive impact on the present society. No matter what it might be, we are to quest why we are here, and what our roles to play and be part of this world

As I’m heavily involved in such a forward-thinking project as TEDxTokyo, I’m often asked, “what’s your next project?” “what goal do you want to achieve?”  But, I don’t have much to say because I’m not as ambitious as people expect. I’m not interested in leaving my marks on the world. I don’t have a 10-year vision.

What do I want to do, then?

I’d love to express myself to the fullest. Though it sounds selfish, this is my honest feeling.

An old friend of mine back from college described me, “you live your life as art”

I pursue a path of being myself, letting my presence as it is, for nothing. I simply embody it in my daily life. I am a piece of my art work. I am the consequence of my expression.

Whom I meet to, where I choose to live, what kind of words I weave, what way I work, what color of love I embrace. My art is neither paintings nor sculptures, but the way of my living.

I wish to be always there for someone who needs my existence at a moment. Being just who I am can be of great help for others, I believe. With no self-sacrifice. With no self-restraint. Without losing a sense of who I am. We humans are meant to appreciate our life, put smiles on others’ faces, and build symbiotic relationships with the other species. Why not doing it? Where egoism units with altruism, my life exists.

But, how? What possibly makes someone’s life art?

My painting blush and ink are communication. From the very beginning to the ending of life, we are destined to communicate seamlessly, regardless of nationality, ethnicity, age, sex, or even species. When alone, we play with imagination. When asleep, we travel in a dream. Talking. Writing. Drawing. Using sounds and movements. We are no longer limited to proximity. Physical communication. Tele communication. Online communication.

We never stop breathing from the birth to the death. Likewise, we don’t cease to communicate until the last day. I think that communication is the minimum unit of social activity of human being.

Each and every portion of communication is the painting blush and colored ink that I select to use.

In order to pursue my art of living, I create the new profession for me; Communication Process Designer. It allows me to seek my soul that is neither defined nor confined by society and culture.

As Communication Process Designer, I support people in tapping into their values and discovering their favorite ways of working. I nurture community where similar passions are shared among its members. I also produce and curate events, and take the lead in various projects. While my job covers a wide range, the essence of Communication Process Design is to lay the foundation of love and trust in order for us to accept as it is and live with integrity.

Breathing dissolves imbalance in our body. Communication dissolves imbalance of society, in other words, the web of human relation.

There are a plenty of breathing techniques invented to purify our body and soul. What kind of communication is in need to work on imbalance of society?

We take it for granted to excel in communication since we do it for years. However, do we really communicate in a genuine manner that enables us to come close together? Have we cultivated such capacity?

仏教的視座ーヴィパッサナとコミュニケーション・プロセス・デザイン

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18歳の頃から始まった自己探求。勉強、遊び、恋愛、旅、サブカル、社会人の真似事、、、やりたいことには正直に、貪欲に。

その核にあったのは、自分の魂と繋がること。

最初は自分でも言っている意味はよくわかっていなかったと思う。「魂ってなに?心臓?人魂?」とついビジュアルを想像したくなったりして。でも、胸の奥の奥の、誰の手にも届かないところに、自分を突き動かす何かがあることは知っていて、例えば「神」という言葉のように、見えないものを具体化するために「魂」という言葉を選びとっていたのかもしれない。

私の場合、自分の魂と繋がること=人間の精神を理解すること、だった。だから、東洋/西洋哲学、心理学、文化人類学、宗教学などの講義を取り、図書館に入り浸った。そのうち書物漁りでは飽き足らなくなり、瞑想なるものを試し出した。高野山で阿字観を学び、月輪観を体験し、鎌倉の臨済禅を嗜み、アメリカ西海岸にて曹洞禅に辿り着いた。知的好奇心から始まった瞑想との関わりは、いつしか悲しいときや辛いときに心を静める大切な時間となった。

28歳で生けるものとしての不条理な挫折を味わい、完膚なきまでに打ちのめされた私は、日本に帰国して放心状態だった。そんな中で出逢ったのがヴィパッサナ瞑想。ゴータマ・シッダールタが仏陀となった際に行なっていたとされる、心を浄化するための瞑想法だ。意味は「あるがままを観る。」

ヴィパッサナ瞑想では、物質的な人間の肉体を徹底的に解剖していく。

どうやってするのか?

ひたすら「呼吸」を捉えることに全神経を注ぐ。そして呼吸を軸に、身体の感覚(センセーション)を皮膚、爪、髪、筋肉、骨、血管、内蔵、脳、さらには細胞レベルでまで知覚できるように意識を研ぎすませていく技術だ。

私たちは起きている間はもちろん、食べていても、寝ていても、セックスしていても、泳いでいても、植物状態になってさえ、必ず呼吸をしている。死ぬまで変わらない唯一の事実。それは呼吸だ。幸せなときも、恍惚としたときも、緊張しているときも、怒っているときも、泣き叫んでいるときも、我慢しているときも、呼吸は続く。仏陀は、呼吸の「自然な」状態を観察する能力を培うことで、心を一時的に穏やかにするだけでなく、心や頭の乱れの根本を捉え、心をまるごと浄化し、苦から逃れる術を確立し、涅槃に至ったと言う。呼吸の自然な状態とは、意図的にコントロールすることなく、呼吸が浅ければ浅い、息苦しければ息苦しい、微々たるものであれば微々たるまま、一瞬一瞬の呼吸の質を観察し、認識し、それに対して反応をしないということ。

人間活動の最小単位を呼吸と定めてアプローチした仏陀。

ヴィパッサナ瞑想を始めてから間もなく、私は長かった学生モラトリアムに終止符を打ち、「コミュニケーション・プロセス・デザイナー」という職業を創ってフリーランスとして動き出した。この根底には、次のような世界観がある。

私たちは、コミュニケーションを絶やすことはない。友達や家族、恋人と一緒にいても、商談でも、授業でも、診察を受けていても、セックスしていても、スポーツしていても、一人でいても頭の中のもう1人の自分と、寝ていても夢の中で、コミュニケーションをする。だから、自分のコミュニケーションがどのような過程を踏んで成り立っているか、自分のコミュニケーションスタイルがどういったもので、それがどう周囲や自身に影響を及ぼしているのか意識化することで、毎日が笑顔で美しいものになると考えた。いつでも幸せでいられるわけではないけれど、辛く悲しい状況になっても、自分のコミュニケーションの術を心得ていると、落ち着いて感情を受け止めてあげることができる。

人間活動の最小単位はコミュニケーションである、と考えて生み出したコミュケーション・プロセス・デザイン。

こんなところに共通項があったとは。

セクシャリティー、センシュアリティー、そしてインド。

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明けました2月。

前のブログエントリーにも書いたのだけど、私が創っている「コミュニケーション・プロセス・デザイン」という概念/アプローチの根底には、ビジネスとかプライベートとか政治とか教育とか医療とか、子供とか大人とか、人間とか動物とか植物とか、私たちの認知が生み出す境界線を取っ払ったところで、生きとして生けるものとしてコミュニケーションの本質を捉えたい欲求がある。

愛情と信頼ある関係性を築くためのコミュニケーションをしましょ、ってこと。

愛情は自分へ向けて。

周りの存在へ向けて。

でもそれは机上の空論ではなく、行動に落とし込める実践哲学。

だから、ビジネスの文脈で翻訳コンニャクなら、組織変革のコンサルティングになったり、グローバルリーダーシップの話になったり、イノベーション創出の場作りになったり、おもしろ人材育成トレーニングになったりする。

教育の文脈に翻訳コンニャクならば、大学生にプロジェクトマネージメントって何よって一緒に考えたり、小学校の先生にグラフィックファシリテーション教えたり、子供と一緒にガラス窓に絵を描いたりする。

個人のライフスタイルの文脈に翻訳コンニャクなら、キャリアチェンジのコーチングになったり、米MBA合格に向けて「俺って何者?」的英論文をサポートしたり、体と頭と心をシンクさせてあげるお手伝いをしたりする。

それ以外のたくさんの場面でも翻訳コンニャクを使う。

愛情と信頼を生み出すコミュニケーションをするための基盤には、「セクシャリティー」と「死生観」としっかり向き合うことが不可欠だという結論に今のところ達しているので、この2つのテーマにゆるっと切り込んでいきたい2011年。

本当は「センシュアリティー」という言葉を使いたいのだが、カタカナ語として聞き慣れないからセクシャリティーにしている。もっと本当を言うと、カタカナ語も撤廃したいので「何かないもんかねー」と思っていたら、昨日、尊敬する方とランチをご一緒した時に彼の口からこぼれ出てきた。

「教育って色っぽくて魅力ある人間を育てることと言い換えることもできるよね。」

ああーーーっ、それそれ!!

誰でも魅力ある人になりたいし、誰でも魅力ある人と一緒に時間を過ごしたい。会社の上司でも、バカやる仲間でも、恋をする相手でも。そして親になれば、子供に魅力ある人に育って欲しいと多かれ少なかれ感じるのでは。

私たち日本人の馴染みある場所で、ビジネスリーダーに対して「色っぽい」という表現を使うことはまずない。女性リーダーに対してであればジェンダー問題も出てくるからなおさらのこと。

組織学の中のリーダーシップ論で、フェミニズムの寵児であった女性2人の学者が “Leadership” という言語を脱構築していく論文を読んだことがある。ポジティブな意味合いで利用されるリーダーシップ”Leadership” という単語と、ネガティブな意味を含みやすい女性を揶揄するセダクティブ(魅惑的な、誘惑する)”Seductive” という単語。実は、辞書内の定義や2つの単語が使われている様々な文章を比較すると、両単語の持っている性質は驚くほど同じ。単語を入れ替えて文章を読んでも意味が通じるくらいなのだ。

言語的な意味合いは同じであるにもかかわらず、リーダーシップは好意的に、セダクティブは否定的に解釈されるのは男性優位な社会構造の影響に他ならない、という論旨。

これがニュートラルに受け取られてるのがフランス。色っぽさ、艶っぽさを性的な意味としてだけではなく、性別関係ない人間の魅力として捉えている。というより、性的な魅力が社会的にタブー視されていず、ビジネス、政治、文化などの分野に関係なく、普通に1つの魅力要素として見なされているらしい。”sensualite”  という単語だそう。

やっぱ、センシュアリティーって言葉の方が私が言いたいことにしっくりくるなぁ。それを日本語化すると「色っぽさと魅力」になるのだなぁ。誤解されやすい響きだけども。

色っぽさ、魅力が漂ってくる人間になるには、セクシャリティー/センシュアリティーと死生観の構築が大事。

このポイントと関連があるね、と彼と話して盛り上がったのが、私たちの中にある心理学的な女性性と男性性。双方のバランスが取れている人、女性性を受け止め表現できている男性と、男性性を受け止め表現できている女性は優れたリーダーですよね!という体験談。

自分の性的なニーズを満たすためには、女性性と男性性を両方活性化させなくちゃいけない。それができている人は個としての自尊心と自信が生まれ、自己へ溢れる愛情を注げ、最終的には「自分」とか「他人」というアイデンティティみたいなものから解き放れた段階に進む。

ユング心理学、人間性心理学、社会構築主義、脱構築、組織論、リーダーシップ、教育、セクソロジー、コミュニケーション。大学時代から辿ってきた色々な分野がネットワークになってきてるわ。

そして、昨日のランチでもう1つ示唆的な言葉をいただいたので最後に記しておく。

「女性性と男性性の秘密はインドにあるかも。」

2週間後にはデリーだ。

複数の真実

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父が亡くなってから2年半。
彼の死因にこだわっていた。

父の死に様を見て、「彼はこうこうこうだったから」「きっとこれがよかったのよ」と、
そこに何彼と意味を付与しようとする人びとに対して激しい憤りと嘔吐感を抱いた。

「あの人の死に方はあの人らしく立派だった。」

「あの子がどうしてあんな死に方をしたのかしら。」

「あんな死に方をするのも当然だ。」

人は他者の終焉によって、その人生をジャッジする。

「お父さんが今亡くなったことは、あなたにとって何かしら意味があるんだよ。」
と慰めてくれる人たちの気持ちに深い感謝はしたけれど、
まったくもって私はそうは信じていなかった。

そんな意味はクソ食らえ!なのである。
父が死ななければ見出せない使命や意図が私の人生にあったとしたら
そんなものはいらないし、自力で手に入れるから父を死なせるな。

そう思っていた。
これは現在でも変わらない。

父の急逝を機にこう考えるようになった。

人間の生命において、私たちは自律を持って人生を過ごしていくことができるし、
無数の意味あることと、意味のないことが、絡まって進んでいく。
しかし、生まれる瞬間と死ぬ瞬間だけはどうやってもコントロールできない。
死という現象に関してはとりたてて意味はない、と。

「死」、否、「死にゆき方」に意味を見出すのは、地球上の生命で人間だけだ。
それは言語と理性を極度に発達させた異例の動物だからかもしれない。

でも私は思っていた。
道ばたに転がっている雀の屍と、棺に入った父の遺体の一体何が違うのかと。
山の中で倒れている巨木と、人間の死体。一体何が違うのか。
土や海に還るだけなのに。

死を特別視し過ぎだ。

生まれ方はそこまで取り沙汰されないのに。
未熟児や帝王切開で生まれたことで、人格をジャッジすることはない。

意味というものを何にでも与えようとし過ぎだ。

意味をなしえないものもある。

人との出会いには意味がある、すべては繋がっている
という信念を持っていた私にとって根本を覆された。
28年間構築した世界観が木っ端みじんに崩壊し、
条理と不条理の狭間で血の滲むような葛藤を経験した。

最初は瓦礫の上で途方に暮れ、
それから何ものにも向けられない怒りと哀しみに翻弄され、
粉々の瓦礫を修復しようとして絶望し、
新しい材料を集めて1つ1つ積み上げていくほかないと思い知らされた。

1年、2年と時間が経過するうちに、
相反する2つの大きな世界観はいつしか共生するようになっていった。
矛盾が矛盾でなくなった。

一方で、人間の死に様に意味はないという自分の主張と裏腹に、
父の死因にずっとひっかかったままだった。

「なぜあんな風に死んだのか?」

自分が「そうである」と信じていて、他人に伝える考え方(espoused theory)と、
実際に具体的な言動や感情に表出され、espoused theoryとは一致しない
素の自分(theory-in-action)の間に、ギャップがあるのが人間の常だ。
このギャップは他人には割と容易に感知さ れるのだが、
当の本人は無意識で、自分は理想的なespoused theoryを
実践していると錯覚していることが多々ある。

あるいは、ギャップに気づいていてもどうすることもできないのだ。

私は後者だった。ギャップに気づいてたが、埋める術を知らなかった。
ただ、その溝の狭間で痛みを伴う違和感を感じていた。

そして今日。
遺影を見つめていたら、
「どっちでもいいや」
とぽつりと思った。

どう死んだか、何が原因で死んだかは、見る角度によって、感じ方によって変わる。

やっと、自らの主張する世界観を歩き始めた瞬間だった。

キーワードは「触れる」

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2011年。

また1つ新しい年を迎えました。どうぞよろしくお願いいたします。

2月は旧暦新年、4月は年度の始め、7月末はマヤ暦の始め、9月はアメリカでの年度始めなので気持ちを新たにする時期って一年に何度もあるんだけど、西暦の1月1日は世界中の多くの地域で共有しているものだし、小さい頃から馴染んでいるから大事な習わしだなぁ。

私は1979年11月生まれなので数えで33歳になりました。(生まれた時点で1歳で、1980年1月1日ですぐ2歳になるから。)本厄、しかも大厄なるものらしい。厄に科学的な根拠はないと言うけれど、「だいたいこの年齢になると体にガタが来るのよね〜。」という事実の観察に基づいた東洋的統計学なのだと思う。「いや、データなんてとってないけどさ、だってそうじゃん?」というような。人間の自然な成長(=老い)や、社会的立場の変化が影響して、多くの人が心身の変化を経験するのだと。なので、大厄だからと恐れるのではなく、暴風波浪警報的に受け取っていきます。気をつけはするけど毎日びくびく過ごせないし、どんなに事前に対策取ってても結局来ちゃったらそれまでだもんね、ははは。

去年は気や血の巡りが悪かったのかたまに体調が下り坂になったものの、風邪など目立った病気には一度もかからず元気に過ごせたので、今年はもうワンランクアップ元気にいきたいと思います。

今年はCommuniation Process Designerって何なの?ってところの、2009年、2010年でまだ出してなかった引き出しをジャカジャカ開けていければなぁ。私の頭の中ではいい感じにCommunication Process Designerモデルが構築されてきてる。だけど、多面的ポリゴンだし聴覚的でもあるし、何より直観的(五感ですらない)なので、どうやって現実世界(他者がいるところ)に表出させるかがチャレンジ。そのためには言語化が必要になってくるのだよー。言語って言うと文字だけになっちゃうから、記号化、かな。絵や色や音も含まれる。建築士が頭の中にある建造物のイメージを設計図に落とし込むように、「自分」という設計図を引いていくことによって他者に伝えて行く。製図するために色んな術(the art)を習得する。それがコミュニケーション。

話し言葉のコミュニケーション、文字のコミュニケーション、色のコミュニケーション、形のコミュニケーション、音のコミュニケーション、間(ま)のコミュニケーション、身体のコミュニケーション、心のコミュニケーション、魂のコミュニケーション。

自分と誰かのコミュニケーション、文化/社会/経済組織におけるコミュニケーション、自分自身とのコミュニケーション、対面でのコミュニケーション、時空間あるいはアイデンティティをまたいだバーチャルコミュニケーション、民族文化や言語を越えたコミュニケーション。

人とのコミュニケーション、他の動物とのコミュニケーション、植物とのコミュニケーション、土や空気や水や光とのコミュニケーション、星や月や太陽とのコミュニケーション。

この文脈でコミュニケーションを日本語に直すと「触れる」かもしれない。「繋がり」ではない。すでに繋がってるから。繋がってるものものに「直接(もしくは比喩的にか)触れる」ことが私の中では大事。

さらに、Communication Process Designerとして、新しい組織論の実験、新しい経済モデルの実験(現行の経済学ではすでに語れないもの)を試みるための土台を創っている最中なのだけれども、ってことはCommuniation Process Designerというプロフェッショナルを育て、根付かせていくためには、これまでのビジネスで必要/有効であったセールス術、交渉術、ブランディング力、マーケティング力、戦略などは一切関係ないのだ、という至極単純当然なことに今朝の瞑想で気づきました。オペレートしている理論が違う(パラダイムが違う)わけだからね。

西洋哲学、心理学、そこから派生する組織心理学に魅了され、学び、実践してきているので、たまーーーーに「心理学はほにゃほにゃだから、それを使っている君は結局うんぬんかんぬん。」と批判を受けることもあるのだけど、私は心理学が醸成された土地柄とは根本的に違った「日本という世界観」から生まれてきているので、私なりの西洋心理学〜組織論の解釈+応用にしかならない。私がいいと思ってる組織心理学の部分しか使ってないしね(笑)。実際、大学院で行き着いた研究は、組織論の根源である機能主義を完全にひっくりかえすような、東洋/日本人的視点+ラディカルヒューマニズム(機能主義と対置されるパラダイムの1つ)から組織論を組み立て直すとか、西洋と東洋という二項対立からではすでに語れない「井口奈保」という視座を徹底的に素因数分解しながらオリジナルの組織論はどこに向かうのか試してみるという論文だったりする。

新年から話はまとまらないわけだが。。。

Communication Process Designer というものは、私の生き様そのものがブランディングになりセールスになり付加価値になること、なのかもしれないな。うむ。

ある意味アンパンマン。「僕の顔をお食べ!」

違うか。

もう1つ最近思ったのが、Communicationを多角的に捉えていく仕事だからこそ、結婚しても産休とっても「現場から退いてブランクができる」心配がまたーくないどころか、パートナーとの人間関係構築、愛情の育み方、出産、育児は究極の修行の場であり、コミュニケーション力に磨きがかかる絶好の機会でラッキー♪

今年も I will BE Communication Process Designer!

2010年10月25日午前11時の想い

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父が他界してからちょうど2年半が経った。般若心経を日常的に唱え出してからも同じくらい(それまでは禅堂に行った時だけだった)。初めて一度も教典を見ることなく、目を閉じたまま、間違えずにスラスラと唱えられた。お経を唱えてると次の部分の音が自然とぽわ〜っと浮かんで来て導かれたから間違えなることがなかった。自分が口から唱えている現在の音と、頭の上に浮かんでいるちょっと未来の音。物理的な音と心の音の重なり。それは不思議な体験。

これまで、哀しみを癒そうとプッシュにプッシュを重ねたCoping Process に臨んできたけれど、今朝新たに気づいたのは「哀しみは癒えない」ということ。この2年半、ヒーリングのためにあらゆる手段を尽くして来たからこそ辿り着いた場所が「今のココ」なのだから、これまでの試みや成し遂げたことはcrucialなことだった。だけどやっぱり、哀しみは癒えないのだ。哀しいのだ。

哀しみを癒そうとするのではなく、この巨大などうしようもない哀しみを、そのまま自分の一部としていくしかないんだな。だから、絶望から這い上がるために、そして、哀しみを癒そう/埋めていこう/少なくしていこうとするためにビジョンに向かって行動を起こしたり、新しい幸せを築こうとするのではなく、純粋に単純に自分にとって心地よく、素敵なアクションをとっていけばいい。

月は、欠けた部分を補完するために満ちるのではない。というか、本当は欠けてない。いつでも丸い。私たちの角度から見ると欠けているように見えるだけ。欠ける時もあれば満ちる時もある。

私も、生きていく中で哀しみや喪失があっても、本当はいつでも丸いんだ。だから、本当に欠けちゃったと錯覚してそこを補完しようとしても、より倦怠と悲愴を生むだろう。翳ってしまった欠けたように見える部分を、また見えるように照らしていけばいいんだ。

私は10年後も、30年後も、今と同じだけ父を失った哀しみに涙を流すだろう。

そういうもんなんだ。

 

「どうしてそれをやろうと思ったんですか?」

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コミュニケーション・プロセス・デザイナーというものをやってます。

え?

他に同じようなことやってる人ですか?

私が勝手に作ったものなのでわかりません。

え?

ああ、ロールモデルとか、過去にこれっていう出来事とかないんですよね。

好きなことをずっとやってきたらこうなったって感じです。

私の仕事の話をすると、大抵こういった会話がなされる。そして必ず訊かれるのが

「どうしてそれをやろうと思ったんですか?」

ロールモデルはいない(尊敬する師匠、先輩はいるけど「この人みたいになりたい」と目指す存在はいない)。特別衝撃を与えたような出来事もない。育った環境もごく平凡。それじゃあ、今やっていることに私を導いたものって何なのか、興味を持つみたい。

組織心理学用語で説明すると、私の場合は intrinsic motivation の方が圧倒的に強い。内的動機と言うのかな。外的な要因 (extrinsic motivation) からではなく、自分の内から湧き出る想いに突き動かされること。外部から受けた影響は、自分の好きなこと、やりたい方向、思い描いているビジョンを確証し、後押ししてくれる副次的なものだなぁ。

じゃあ、intrinsic motivation の核たるものは何なんだろう?何度も自分の考えを言葉にしていく中で、明確になってきたものがあった。

まず根源にあるのは、人間という生き物への探究心。人それぞれの思考、感情、行動に興味があるのはもちろん。でもそれより、普遍的に人間って動物がどんなものなのか知りたい。探求するために最初に出会った具体的な方法論は心理学だった。心理学にのめり込んでいくうちに、この学問と自分が生まれ持った気質と能力がとてもよくフィットしていると実感し、自分の極めるべきは心理学だ!と直観。

精神分析学や精神力動学といった臨床心理学から始まった旅だけれども、人間の深層心理の病を治すというアプローチより、健康な人が健全な生を営むために確立された「第3の心理学」「人間性心理学」と呼ばれるものに可能性を見出すようになった。そこからさらに実際性を重視して、応用心理学の1つである「組織心理学」を修めることにした。

組織というのは一般的に、人が2人以上集まったものを言います(私は、人間個人も組織体という前提で組織心理学を学んできてるけど)。だからその射程範囲は無限大。長期的に機能していく(と考えられている)会社や学校だけが組織じゃない。カップルも組織だし家族も組織。一時的なグループも組織だし国家も組織。国連やEUのような国境をまたいだものも組織。人間は群れを作る習性のある動物なので、必ず組織は生まれる、と私は考えてます。

もう1つ、コミュニケーション・プロセス・デザイナーに辿り着くには不可欠な世界観がある。それは

「人間の活動はすべてコミュニケーションに集約される」

というもの。人は生まれる前の母体にいる時からコミュニケーションしてます。1歳頃から言葉を覚え、寝ても覚めても言語を巧みに操って夢を見たり、好きな子のこと考えたリ、勉強したり、商談を取り付けたり、新しい料理のメニューを考えたり。

集団を形成してコミュニケーションをしながら生きていく動物、人間。

これが私の世界観の枠組み。

そう、人間って動物なんだよ。

なのに、どうして生命維持活動である「食べる」行為をするために、やれ会社に行ってお金を稼いで銀行からお金を引き出してお店に行って食材を買わないといけないのだろう?他の動物はこんな複雑なことしてないのに。

どうして温かい場所で眠るという生命維持活動をするために、家を探して保証人を見つけて収入証明を提出して審査されて、、、って複雑な行程を経てからじゃないとダメなの?断られる危険性もあるってなんで?生きるためには温かいシェルターが必要なんだよ。

一夫一婦制って本当に人間という動物にあっているシステムなの?

国という組織体は人間が幸福に生きていくために適切なシステムなの?

こんなに複雑なプロセスを経なければ、いのちを支えていくことができないなんて、なんか回りくどくないか???

「じゃあ田舎に行って電気を使わずにすべてを自給自足で暮らします」と言うには私の脳内はinfectedされてるからw、原始に回帰するのではなく、現在の環境を踏まえた上での人間の次の進化の行く先にすごーーく興味があります。

資本主義の次の経済理論は何?

国家という形ではない新たな集団組織は一体どんななの?

既存の会社組織を中心とした働き方じゃない、もっと動物「人間」のいのちを育む働き方ってないの?

そもそも働かないと生きていけないって大前提を疑ってるし。誰が決めたのーー。

お金以外での交換システム(つまり契約に拠らない)だって機能するはず。

今ある恋愛の仕方や家族形成の仕方とは異なる方法でのライフスタイルってどんな風にデザインしていけるかな?

社会が生み出す決まりやタブーって、どこまでが人間存在に必須なの?セクシャリティーが罪や恥の対象になってるのって、社会文化的な人的操作が入ってやしない?

などなどなど。

こーゆーのを実験しているのが、コミュニケーション・プロセス・デザイナー。

死生観を考えるワークショップをそのうちするよ。

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土曜日はgreen drinks湘南に参加してきました。「green drinksって?」という人は

こちら

gd湘南のオーガナイザーの1人で、今回の会場となった平塚、宝善院のお坊さんである弓月くんとは、去年末に「R水素と仏教」というトークショーでご一緒させていただき、それから仲良くしています。3月末には成田山まで一緒に断食道場合宿に行ってきました。初挑戦だったので3日間しかやりませんでしたが、逆に3日目でやめるのが一番体にとってはきついんだって。実際、私は2日目、3日目と飢餓症状というものが出てギリギリを経験しました。今度は5日間やってみよっかなー。

と、今回はその話ではない。

土曜にgd湘南で「百字偈(ひゃくじのげ)」という菩薩様のお経の写経と、和綴じ製本を初体験してきました。

写経&和綴じ製本キット

できあがり

筆を握り文字を書くという行為とあまりにも長い歳月離れ過ぎていたため、体の変なところに力が入ってうまくバランスが取れず苦労しました。それに、難しい書き慣れない文字が多かったので、漢字の形を目で追ったり書き順に戸惑ったりと、瞑想とはほど遠い状態でした。呼吸と共に筆を下ろすということに、体が馴染み始めてテンションがうまく弛み出した頃に100字終了。茶道と同じで、まずは作法と所作を体が覚え込み、動きが無意識に出るようにならないと、自己と対峙するというところには行き着けないのだろうなと感じました。その後、針と糸で表紙を留めていき、手づくり経本が完成!

green drinksの最後は、お酒を飲みながら好きなことを語らいます。その時に弓月くんと話した私たちの野望(笑)について少し。

それは、日常において「死」と「生」に向き合い、自分の世界観はどのような骨組みになっているのか考えるスペースをワークショップを通して創っていくことです。弓月くんは職業柄、お葬式、法事と人の死とそれに関連する儀礼に立ち会うことがしょっちゅうあります。私は父の死によって、自分がそれまで信じて存在してきた世界観の崩壊を経験し、瓦礫の山から新しい世界を構築している、まさにその道すがらにあります。やっとこさ、瓦礫の下敷きになってたところから這い出して来た。父の死を受け止め、悲しみを表現するgrief processを進めてきています。

弓月くんと私はそれぞれ違う立場から「死=生」というものと日々触れています。だから、一見、日々の生活には関係ないような「死」という重々しいテーマを考え内面化していくことが、自分たちのなにげない1日の過ごし方に多大な影響を与えることを実感しています。どんな仕事をし、どんな伴侶を選び、どういったライフスタイルを作っていくかは、どんな風に生き、どんな風に死にたいかに直結していると思うのです。「死」の概念を問い直すことが、ポジティブに生に関わっていく原動力ともなる。

こんなことを安心、安全、居心地のいい空間で話していけるような活動をしていきたい。来年かなー。