平和なイヤなやつ

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体をミクロレベルまで探りに探った。
脳みそ、経絡、筋繊維、骨格、毛細血管、チャクラにチャネル。
生まれた時から今までの過去をしらみつぶしに遡った。
精神分析的にも、認知心理学的にも、システム論的にも、
プロセスワーク的にも、トランスパーソナル的にも、ゲシュタルト(身体)的にも
わたしという存在と歴史の横軸と縦軸と斜め軸を、詳細に丁寧に明らかにしてきた。
心と体と頭と魂が一致し、過去と未来が現在に集約した。至高の幸福を体感した。

それからしばらく、至高の空間に滞在しながらも葛藤時期に入った。
停滞と思えた。5歩進んでは3歩下がった。
さまよいつつも体の感覚は抜群に研ぎすまされ、意識は明快だった。
鋭過ぎるほどだった。

今日、頭の中に降って来たのは
もう自分の体が感じることや、心の声が言うことはいいやと思った。
とりあえずはやり尽くした。1つの峠は越えた。
次は私以外のものが感じていることを感じよう!
感覚器を拡張・内包したい!
枯れ木が感じていること。薄い靄のかかった空気が感じていること。
空が感じていること。周りで息づき、蠢いている無数の有機物(人間含む)。
私の目や耳や鼻が捉え、脳が捉えている世界。
この世界が感じているものをダイレクトに共時性を持って感じる術を持とう。
透明になっていく感覚。
自分の体のキャンパスに、背後の風景が透けて見えるように描かれて、
やがてはレイヤーが重なって1つにマージする。

(閃いたばかりの意思なので、まだうまく言葉にできない。)

あと、平和なイヤなやつになってこう。
戻る、かな。

越境と内包

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人生をアートする。

長い歴史の中で形成された社会の仕組みと文化の表象。
目には見えないけれど確固として存在する無数の境界線。
越えやすいものもあれば、越えにくいものもある。

国境。民族性。国籍。言語。
法律。政治。規約。社会規範。
水平線。大気圏。標高。
家族。友人知人。会社。学校。知らない人たち。

越境する。

ある3つの事に対して私は特に意図的に関わってきた。
3つとは、金、性、死。
人間生活に深く楔を打たれ、避けることはできない事象。
にもかかわらず、多くの社会でベールに覆われ、語られることが少ない。
日本に限らず、お金、性、死にまつわることは、身内(personal)か外(public)かの境界線がはっきりと敷かれ、
外とは共有されることはあまりない。恥、罪、忌み、恐れの念がねっとりとまとわりつく。

お金、性、死の輪郭線を引き直すことで自己の領域を広げ、
「他」や「外」との新しい関係を見出していく。
お金/性/死と自分の関係。
お金/性/死を通じた私と家族の関係。
お金/性/死を通じた私と友人知人の関係。

越境し、内包する。

お金がないと不安だから不安を減らすために増やす、
お金が増えていくと気持ちいいから増やす、
ではないお金の巡り方。

性について表現し、欲求を満たそうとするのは恥であり卑しいから
外に見せるのは怖いけれど欲求は現に存在する。
だから抑圧するか隠すか攻撃する、あるいは逆に肥大化させて貪る、溺れる、盲目となる、
ではない性の表現。

死が日常に転がっているのは辛く哀しく怖ろしく忌み嫌うべきものだから
直接取り扱わなくてよいように生活スタイルや意識から切り離す、
扱い方がわからないから死を濫用する、
ではない死との向き合い方。

嫌だという心理(aversion)と快感(pleasure)に執着することによって回転するカルマの歯車。

歯車を外し、流れを生もう。
私を通過していく沢山のものものから作られるエネルギー。
それがお金であり、性の顕現であり、死への道のり。

不安とは

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不安という感情に殊更向き合っている。拭い去ることはできずにいる。

私たちが住む社会は不安を極力取り除こうとしてできている。老い、心身の不調、死への不安を減らすために医療の進化は止まることがない。死を非日常化するために、死は制度となり、管理される。保険や社会保障はどんどん膨れ上がり、不安を煽ることでビジネスが成立しているようにも映る。食べ物が枯渇しないように天災への対策を徹底化、生活品の供給はとめどなく、暗闇への不安から電気を煌煌とつける。暮らしに「困ること」がないようにデザインされ発展してきた。困ると不安になる。命が脅かされる第一歩だからだ。

お金と愛と信頼の関係性を紐解く試みを始めた。見返りのない金銭の循環はありうるのか?家族の枠を越えて、愛と信頼がお金の動機となりうるのか?お金を想いを運ぶ純粋なるカレンシーに還元できるのか?そんな問いかけを実行に移し、友人からの愛情によって支えられる暮らしに入った。そこでの新たな問いかけは、人間の本能とは何かということ。己の思考、感情を綿密に辿る日々。すると、根源的とも言える不安に遭遇した。不安の実態を突き詰めると、茫漠たる観念ではなく神経をピリピリと刺激する物理現象だった。不安と名付けられた心理的作用の源である固い痼りは、胸と背中の奥に棲んでいる。まるで別の生き物のように。

不安が体に痛みを刻み、振動となって芯から響いてくる。これまで痛みを摩滅しようとしてきたが、消えることのない生物のデフォルトなのではと思うようになってきた。不安を受け入れるのは容易ではない。不安を減らそうと躍起になる方が簡単だ。でも、消すのには限界があることがわかってきた。少なくとも今の自分には。完全に痛みから解き放たれた体などないのだろう。不安を消さんとする意思や行為は動物の本能だろうが、不安がなくなった状態は動物ではないのではないか?一つの形は仏陀だろう。特に目指しているわけではないが。私は人間の持つ動物らしさ、本来性を体現したいだけ。

社会や文化を成り立たせている骨組みのちょっとした歪みに居場所を見つける。そんな気分の暮らし方はすこぶる快適だが、骨組みが守ってくれている不安要素にダイレクトに曝される。動物らしさを追求した結果、快楽ではなく根源的不安が明るみになったのは興味深い。社会システムに盲目に嵌め込まれていても不安は絶えないが、自由になってみると不安はなくなるどころか先鋭化した。不安の因果が明確になってきた。何かを失うことへの不安だ。この不安は最後、死への恐怖となる。

いずれにせよ、どこでどのように生きようと不安は無くならないということだ。ウィルスのように、テクノロジーや社会システムの進化に合わせて人間の不安は進化していく。一つが満たされ「より健康な、長生きできる暮らし」が実現したら、次の不安が姿を見せる。ならば、これ以上不安を複雑化するのではなく、立ち戻って根源的な不安に向き合うのはどうだろう?死への恐怖に。毎日、毎日、生きるか死ぬか。ジャングルに行かなくてもできる。

幸福とは不安が無い状態ではない。必ずしも病気や衰えを(恐れて)未然に防ぐことが幸せをもたらすわけではない。無惨に苦しみながら死ぬことになったとしても、至福はもたらされうる。生死を価値や意義で判断しない地点に立てた時に至福が表れる気がする。
不安を扱いながら思うのは、体と心を研ぎすませ過ぎても座礁するということだ。岩は無くなるまでに果てしない時間がかかるので、真っ向から溶解せんと対峙するより、波のように岩に押し寄せては引く程度がいい。

スピリチュアル、マインドフルとやら。

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スピリチュアルとは、現実を超越した身体や脳を飛び出すようなふんわり慈しみあふれる空間やビジュアル体験ではなく、しっかり現実と繋がって地に足に着いた、現実を落ち着いてクリアに観ることだ。

スピリチュアルとは、特別に瞑想したり祈ったり、あるいはシャーマニックな儀式をして恍惚となったり、現実から少し離れた体験をしたり、美しく麗しいニルバーナを体験したり、僧侶と敬虔な話をしたり、神的なものや形而上学的あるいは心理、情緒的な「神聖なもの」のイメージを頭に作ることではない。これは一つのレイヤー/段階に過ぎず、これらに限られるわけではない。

顔を洗うことも、お茶漬けを食べることも、自転車に乗って都会の風を受けることも、夜の帳でカモフラージュされた汚い川を眺めることも、スピリチュアルなの(なりうる)である。

スピリチュアルとは、スピリットとコミュニケートすることで、こう言うとえらく神妙だが、言い換えればスピリットのデータを受け取り解釈し役立てることだ。科学的に解明されたことはスピリチュアルではない、というのも幻想だと思う。

スピリチュアルとはまず、自己内のスピリットを感じること。血流、汗、心臓の脈、胃液や唾液や色んな体液の分泌、眼球の動き、鼻から気管を通る呼吸、脳みその動き、筋肉を動かす信号の流れを身体で感じること。これは水や風や土や火のエレメント=スピリットだ。体液や血は水分だし、筋繊維は土、体温は火だ。温水で床暖房と同じだ。

マインドフルネスとは、他人に深い気遣いができたり関係性が複雑化する大勢の人間とのコミュニケーションに良い方策がとれる=エモーショナルインテリジェンスが高いことや、瞑想で1時間座ってられること(だけ)ではない。すべてにマインドが行き渡っている、つまりaware and alarted、意識が覚醒してる状態で、身体内外のエレメントが持つスピリットを、信頼できるデータとして取り扱えることだと思う。

そうすると、目の前の空気や仕事してる机や鉄筋建物や公園の木や水道水のエレメントもわかるようになって、スピリットと交信(データ解析)できるようになる。風の妖精と吹き出しつきで話したりはしない。話したい人は話してもいいんだけど、コミュニケーションの形はそれだけとは限らない。

だから大自然や田舎に行かないと、あるいは古代の教えを学ばないとスピリチュアルな生活ができないというのは真ではない。どんな汚いところにもスピリットはある。自分が生きてる限りは。なぜなら自分の肉体、血潮が第一のスピリットだからだ。別に神木を拝まなければいけないわけではない。もちろん、聖なる場所や圧倒的大自然のスピリットは絶大でエレメントに溢れてるし、視覚的にも最高の美なので、たくさんのエネルギーがもらえるけれど、逆に、もし常に自分のスピリットをモニタリングできて、毎分毎秒スピリチュアルな感覚が作動してれば、そういう場所に行った時の体験はまったく想像を絶するものとなる。圧倒されるのではなくすんなり一部になるのである。

とは言うものの、ここに辿り着くまでには練習が必要だから、昔の知恵に頼ったり、瞑想したり儀式したりおかしなポーズをしたりトランスして踊ったり文言唱えたり色々する。要は、それが終点だと勘違いしないことが大事。

What is your art? – A trial of responding to the question.

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The current general definition of art premises that art is to be seen (heard, or touched). In order to see, a product or an object is required. On the contrary, my art has no product or tangible object to show. My art is a process. I don’t have things to show and exhibit though 95% of people ask me, “how do you display your art?”  “how do you track your art?” “ This is yet to be answered. What is a verb to materialize an ongoing day-to-day process that cannot be captured but flows away in a river of time? What is a verb to make an invisible, untouchable process tangible? If I discover the verb, it would make my communication to the others easier.

I may know what the verb is. Perhaps it is “to live with.” The only way of appreciating my art is to enter into it. My definition of community is “that people who are involved in one another’s decision-making process at a turning point in their life are loosely connected beyond chronological and geographical distance.” I launched and developed many communities, Not all of them meet the definition. Some remain a cliche “community” in a broader sense. A “team” formed to achieve a goal of a project or business isn’t community.

Therefore, I designed a framework where my friends and people can knock a door and step into my life. My living. My life to death. That is “life with.” A participant of the process. Becoming an actor is the quickest way of appreciating my art, I suppose. Such art. Community is a stage of life, isn’t it?

To answer the question, “what is your art?” it’s inevitable to break down multiple facets of my art-life experiment and explain each facet. Even though I’m not fully motivated to verbalize it, I’m going to give it a try little by little.

Here we go.

-Experiment in community:

shaping a new community out of my exiting communities that is closer to the community by my definition. That is, a community where people are involved in one another’s decision-making process at a turning point in their life and loosely connected to one another beyond chronological and geographical distance.

-Experiment in money as energy, currency:

shifting numerous psychological meanings and connotations attached to money. Opening an alternative channel in which money is dealt differently from the conventional measurement in the capitalistic market (i.e. the equivalent exchange system of labor, socially value-added, and money). Instead, this is an experiment to exchange money with love, trust, and generosity without return, responsibility, obligation, and power dynamics that the money-goods exchange usually causes.

-Experiment in a working style

actualizing my definition of working. Working is living by my definition. To work, zu arbeiten doesn’t necessarily mean that you are paid. Paid or unpaid? Employed or unemployed? Under contract or under the table? Enough to cover rent and bills or do I have to cover from my own pocket? Such a criteria to choose jobs and everyday behavior is based on the equal (value) exchange system between money and working. I work out of that box. On the other hand, I don’t go for the “without money” thing. Being anti is not my stuff. I make a decision on how to work by fully truly (at least learning to) optimizing all the data that I can acquire, from scientific hard data and numbers to movement of spirits in elements. As a result, my decision-making process, motivation for actions, and cognitive patterns are more likely different from general human behaviors in the current capitalistic society. I am apparently less influenced by money in my everyday life choice. Expanding my capacity in accessing data available in the universe is similar to learning to surf on a bigger wave.

-Experiment in the relation between the body and the mind

through self-observation, precisely elucidating the linkage between the body and the consciousness and how this “clutch” affects a word and behavior in my daily life. Physical, physiological, psychological, mental, and cultural influences are to be monitored.

-Search for the intrinsic nature of human being, as an animal species

What is wildness, instinct, intuition, and innately given potential in human? Discovering answers to the question through ordinary urban life, by excelling at the finest subtleties of our daily, trivial actions, instead of being engaged in so-called “wild” and “physical” activities such as sports, athletics, and outdoor. The human physicality and intuitions shouldn’t be limited to “country side self-sufficient life of farming, eco energy, and 100%DIY,” for example. For humans do something with and by the body 24/7 (including sleep and rest, or brain activities like doing math and thinking). Thus athletes aren’t the only wild and intuitive humans. All we know that.  How would it be to fully tap into human wildness and intuitions, which is largely dormant amongst our body, in the post-modern highly developed society?

-Creating the view on death and life

I thrive to live as internalizing my own death and preparing for it. I don’t live with the “If I should die tomorrow” concept. It doesn’t please me and make sense to me. I don’t feel like living desperately for my life everyday, as if it would end tomorrow. Death is always here. Never leave us alone since our birth. It’s a 100% positive phenomenon. (thus, different from the Schrödinger’s cat. There is no paradox.) We are walking towards death. To live is to be dying. The first step for death is taken much earlier than when we recognize or are diagnosed symptoms of fatal illnesses. Readying myself for death. That is, to grasp the moment of death, be alerted and conscious of death, accept it, and become it. I have no clue how I would die. A disease? An accident? A murder? A suicide? No matter what, I prepare for it every single day, by staying clear and aware of my true animal nature of human existence. That’s why I practice Tibetan Bön and Buddhism dream yoga.

-Making my life a piece of art (this is the foundation of all my activities)

Ideas floating in the head. “What about this kind of society?” “What if we had such and such a world?” “We could do this and that, couldn’t we?” “That would be much more fun than what it is now!”  My art is to implement my philosophy, values, and worldview in daily life. It’s the same as painting, building a sculpture, or shooting a movie. To crystalize and embody own philosophy. My medium is my everyday life. Since I don’t attach much importance to “to show” and “to exhibit” to the others, it may not be easy to conceptualize my attempt as art. Because you can’t see, hear, or touch it. But, I receive money and make my living out of this art (cf. see above: experiment in money as energy and currency). How to breathe, how to walk, how to encounter people, how to choose every and each behavior, how to sustain my life financially, socially, and psychologically, and how to spend every minute and second. In order to make my life a piece of art, I believe it is essential that my body, mind, and soul are always together and that my mind and soul reside in the body happily and consistently. This is the clarity of consciousness. I practice to attain the state of mind everyday by means of Tibetan dream yoga, because it encompasses all facets of consciousness; dreaming, sleeping, and dying, and provides systemic theories and methodology.

私のアート作品の説明を試みてみます

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(少なくとも現代の一般的な)Artの概念、定義にはto see(to be seen)がデフォルトで入っている。To see には何らかのproduct(見る、触れる、鑑賞する対象)が必要になる。私のArtはprocessなので、 processを顕在化させる動詞はなんだろうか。それが明確になれば、コミュニケーションがもっと容易になるだろう。

それはやはり、to live with なのかもしれない。processの中に一緒に入ってもらうしかないのだ。私のコミュニティの定義は「人生の大事な意思決定に何らかの関わりを持つ間柄の人たちが、時間・地理的距離感を越えてゆるやかに繋がっている」だ。これまで沢山のコミュニティをローンチし、デザインし、育ててきたが、プロジェクトやビジネスを達成する「チーム」のままでいてはこの定義を満たすコミュニティにはならない。

だから、生きること、命に関わることに入ってきてもらう枠組みを作ってベルリンにやってきた。それは “life with”だ。Processの参加者、役者になってもらうことがartを鑑賞・堪能することにもなる。そういうArt 。コミュニティとは生きる舞台か。

そして人からの質問に答えるためには、今、実験している多面的なことを一つ一つの面に分解して説明することが避けられない。そう、説明しないといけないのだ。しょっちゅう遭遇するので観念してロジカルに整理し始めてみようと思う。これは試みの第1回です。

その面とは、

【コミュニティ実験】これまで育ててきた数々のコミュニティが浮遊するエコシステムの中で、自分の定義するコミュニティに近づける実験

【お金の実験】資本主義社会の中でお金の意味や価値を変え、市場で換算される労働的価値や社会的付加価値とは違う尺度でお金が流れる、すなわち愛、信頼、寛容さ(love, trust, generosity)によってお金がやり取りされる実験

【働き方の実験】自分の定義する働く、to work, zu arbeiten を実行する。paid or unpaid?  employed or unemployed/under contract or without contract?  enough to pay rent and bills or not enough?  といった基準から賃金との交換で働くのではないやり方。かといって、”without money” というアンチ資本主義ではなく、意思決定方法、物事への動機、思考・行動パターンが従来の資本主義経済での一般的人間行動とは違った形で「働き方」や「仕事」を、一瞬一瞬身体が受け取るあらゆる情報エネルギー(科学的データからスピリットの動きまで)をフル活用して選び取っていく。それは波に乗るのと非常に似ている。

【身体と意識の実験】身体と意識がどのように連動し、日々の一つ一つの言動に作用しているか自己観察によって精細に学ぶ。物理的、肉体的、心理的、精神的、文化的な影響を見る。

【人間の動物としての本来性の発見】人間の野生、本能、直観、もともと備わる自然の力とは何かを、スポーツやアウトドアなどいわゆる「動物的」と言われることからではなく、常日頃の当たり前の何気ない行動の機微を極めていくことで探る。なぜなら四六時中、人間は肉体を使って何かをしているのであり(休憩や睡眠、あるいは計算や思考といった頭脳を使う活動を含め)、単純にアスリートだけがより動物的なわけではないからだ。都会に住み今の時代の生活の中で、それでも動物的であることとは何か?

【死生観の構築】私は死を自己内包し、死に向かって準備をしながら生きている。準備の仕方は「明日死ぬかもしれないから今日を大切に力いっぱい生きよう」ではない。これは暑苦しくてむしろ嫌いな考え方。そうではなく、死はすべての命に常に存在している100%の事象だということ(だからシュレディンガーの確率論とはちょっと違う)。私たちは死に向かって生きている。生きることと死にいくことはイコールだ。病気が顕在化してからが死への第1歩ではない。毎日の中で死への準備をするとは、この体が病気か事故か殺人か自殺か何で終わるかわからないが、なんにせよ終わる時に、死の瞬間を意識が捉え、受け入れ、死と合一することだ。そのために今はチベットのボン教及び仏教に伝わるドリームヨーガをやっている

【人生をアート作品とする試み】頭の中に浮かぶアイディア。「こういう社会がいいな」「こういう世界がいいな」「もっとこうしたらいいのに」「こういうことってできるんじゃない?」自分の思想、価値観、世界観を毎日の暮らしにおいて実行、体現するのが私のアート。絵を描いたり、彫刻を作ったり、映画を撮るのと結局は一緒です。自分の哲学を表現すること。私のメディアは私の毎日の人生。「見せる」「発表する」ことに重きを置いてないので、従来のアートとは違うかもしれませんが、いちようそのアートでお金を集めて生活してます(上記のお金の実験)。どうやって呼吸して、どうやって歩いて、どうやって人と出会って、どうやって一つ一つの行動を選択して、どうやって生活を成り立たせて、どうやって毎分毎分、毎秒毎秒を過ごしているか。人生をアート作品とするには、意識が常に覚醒していること、身体と意識と魂が常に一致して、この身体の中に宿っていることが大事だと思っているので、毎日その練習をします。練習方法は今はチベタンドリームヨーガです。なぜなら、夢見ている間、寝ている間の身体と意識も取り扱っている体系化された理論だからです。

What got me practice Tibetan Dream Yoga

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“Iguana bites those who don’t dream.”

– a man from “Waking Life”

 

Lately I often receive this question. Therefore, I decided to recap my thoughts.

1. Embracing death

Since my mid 20’s, I was keen to find a way of internalizing the notion of death, theoretically, emotionally, and physically. That intellectual curiosity became a fatal matter to me after dad’s death. I was immersed in a deep and stumbling exploration of death and life during the grieving and coping process . Tibetan Buddhism is one of few extraordinarily logical systemic (different from “realistic” or “viable”) methodologies that explicitly deal with death. Not all but many parts of the philosophy resonates me. I can easily relate to the world view that Tibetan Buddhism offers. Furthermore, I would like to cultivate capability of facing my own death, the art of dying. Tibetan Dream Yoga gives me a tangible technique for that. Every night, we are in a state as if we were dead. How to treat that state of mind and body and how to apply it to the time of our death?

2. Being in action for 24/7

Tibetan Buddhism utilizes the time of dream and sleep, in addition to the time we are awake, in order to optimize their practice. I hear that top-notch professionals and experts (e.g. musicians, athletes, dancers) spend in average 7 hours per day in practicing their skills. My instrument is neither a piano, a violin, nor a tennis racket. It’s my mind and body and its relationship. I want to excel at being connected to the consciousness and body all the time and expand the capacity. Why not practicing 24/7 as there is a method already!

3.  Sleep is the most stormy time

The more calm, aware, and alerted I became able to stay during day time owing to my practice of meditation, yoga, and intellectual and spiritual journeys, I noticed that I felt most exhausted right after sleep, that is, when I woke up in the morning. My karmic traits; fear, anxiety, concerns, anger, past memories, unconscious influences from internal and external worlds, innate body functions, etc. were unharnessed. The purification and detoxication happened during sleep, though it was nothing like nightmare or anything. More like a lot of hard core exercise done, my body sensed. My ability of being meditative and mindful was all gone during sleep, because I was asleep! How could I maintain it? In general, it’s considered to be impossible. But, hey! Tibetan Buddhism has developed a way of advancing dreaming and sleeping time.

Last year, finally, a serene pond of inner peace was discovered within myself. I know how to get there, as long as I’m awake and conscious. How wonderful it would be to take a a walk there while I sleep as well. I’m determined to become, “I’m asleep and yet conscious.”