What got me practice Tibetan Dream Yoga

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“Iguana bites those who don’t dream.”

- a man from “Waking Life”

 

Lately I often receive this question. Therefore, I decided to recap my thoughts.

1. Embracing death

Since my mid 20’s, I was keen to find a way of internalizing the notion of death, theoretically, emotionally, and physically. That intellectual curiosity became a fatal matter to me after dad’s death. I was immersed in a deep and stumbling exploration of death and life during the grieving and coping process . Tibetan Buddhism is one of few extraordinarily logical systemic (different from “realistic” or “viable”) methodologies that explicitly deal with death. Not all but many parts of the philosophy resonates me. I can easily relate to the world view that Tibetan Buddhism offers. Furthermore, I would like to cultivate capability of facing my own death, the art of dying. Tibetan Dream Yoga gives me a tangible technique for that. Every night, we are in a state as if we were dead. How to treat that state of mind and body and how to apply it to the time of our death?

2. Being in action for 24/7

Tibetan Buddhism utilizes the time of dream and sleep, in addition to the time we are awake, in order to optimize their practice. I hear that top-notch professionals and experts (e.g. musicians, athletes, dancers) spend in average 7 hours per day in practicing their skills. My instrument is neither a piano, a violin, nor a tennis racket. It’s my mind and body and its relationship. I want to excel at being connected to the consciousness and body all the time and expand the capacity. Why not practicing 24/7 as there is a method already!

3.  Sleep is the most stormy time

The more calm, aware, and alerted I became able to stay during day time owing to my practice of meditation, yoga, and intellectual and spiritual journeys, I noticed that I felt most exhausted right after sleep, that is, when I woke up in the morning. My karmic traits; fear, anxiety, concerns, anger, past memories, unconscious influences from internal and external worlds, innate body functions, etc. were unharnessed. The purification and detoxication happened during sleep, though it was nothing like nightmare or anything. More like a lot of hard core exercise done, my body sensed. My ability of being meditative and mindful was all gone during sleep, because I was asleep! How could I maintain it? In general, it’s considered to be impossible. But, hey! Tibetan Buddhism has developed a way of advancing dreaming and sleeping time.

Last year, finally, a serene pond of inner peace was discovered within myself. I know how to get there, as long as I’m awake and conscious. How wonderful it would be to take a a walk there while I sleep as well. I’m determined to become, “I’m asleep and yet conscious.”

 

 

 

 

The night sky

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(JPN follows ENG)

In the study of psychology, there are multiple layers that divide the consciousness and the unconsciousness. In other words, there are boundaries or films between the two.

When I explore human consciousness both during day and night without a premise of the notion of the unconscious, I come to see a different structure of the consciousness.

The human consciousness is like the night sky. Thoughts and emotions in our waking life (conscious realm) are the first magnitude stars. They are in the visible spectrum even in an urban area unless it’s terribly cloudy.

Past experiences and memories or subliminal information that “unknowingly” influence our cognitive activities and dreams during sleep (unconscious realm) are the fourth of fifth magnitude starts. Our eyes fail to capture unless we go to countrysides with less urban lights and clearer air.

All the elements exist over the sky even if they are merely luminous residual of ancient materials that vanished millions light years ago. We need to arrange a certain condition and circumstances in order for our eyes to see light of all the stars that affects our human mind. There is no boundary between the consciousness and the unconsciousness. It’s just the consciousness. Regardless of the gap in magnitude of brightness, we will be able to look at weak light, as long as we practice.

 

意識と無意識はいくつかの階層によって分かれているというのが、現在の心理学的な見方だ。言い換えれば、意識と無意識の間には境界線か膜のようなものがある。

でも、「無意識層」という概念を前提におかずに、寝ても覚めても意識を探求していると、違った意識構造が見えてくる。

意識とは夜空のようなもの。起きている間の思考(意識化されている領域)は一等星。雲で空が覆われていない限りは、都会からでもキラリと光っているのが見える。

自分が気づかないうちに影響されている過去の体験やサブリミナルな情報、寝ている間に見る夢(無意識領域)は四等星や五等星。空気が澄んでいて街の明かりが少ない場所に行かないと肉眼では捉えられない。

あらゆる要素は常に空の向こうにある。それが何億光年先で、太古に物質は消えてしまい光だけが残っているにせよ。私たちの意識に影響し、構成する「星」の光をすべて肉眼で捉えるには、それなりの環境と目を整える必要がある。意識と無意識なるものがあるわけではない。すべては意識。光の強さの差こそあれ、弱い光でも、整えれば見抜けるようになる。

 

My observation on Yoga

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Yoga is a way of reconnecting with all the parts of the body. It releases blockage within the body, even tiny bits and pieces, lets congested energy flow, and reactivates power that we are innately given.

Sports and dance are great to build up and strengthen our body. The body will be designed to do a certain movement. Muscles and flesh will be grown and molded into a particular shape to function in a particular manner to be most effective to do a specific sport or dance.

A big difference of yoga is that it doesn’t “add on.” Yoga is to unlock the current condition and unleash a force that each and every muscle fibre and tissue potentially has. It doesn’t aim to produce new muscles for a purpose (although it happens). Yoga doesn’t miss out anything of us. It pierces us inside out and upside down.

Our body and mind have abound power once all are interconnected. We don’t know how much force we can emit when we properly stretch and press the body both inward and outward at most, after softening stiffness.

思考の糸車

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意識を明晰に「ここ」に静かに留まらせようとしても、気づけば思考の糸車はまわって糸がたわんでいる。糸のたわみに気づくたびに糸を巻き戻す。しかし数秒後には意識はまた思考の旅に出る。どういった流れで思考のプロセスが始まるのか足跡を辿ると、知りたいという欲求と伝えたい(=知ってもらいたい)という欲求が根底にある気がした。多くの種類の思考の性質を解析すると、知りたいという欲求と伝えたい(=知ってもらいたい)という欲求に帰属するのではないだろうか。不安や恐れといった感情も、知りたいけれど知らない、わかっているべきなのにわかっていない、伝えたはずなのに伝わっていない(ようだ)、といったダイナミクスが関係している。死への恐怖は「死ぬかもしれない」「もう生きていけないかもしれない」という、知っておきたい生の確率がわからないからだと捉えられる。

話が脱線するが、死への不確実性は常に在る。いつでも「死ぬかもしれない」のだ。にもかかわらず、心身が「健常」な状態の時は、死ぬかもしれない恐怖に脅かされずに「正常」に「平静」に過ごすことができる。ということは、私たち人間は、知りたいけれど知らないことを、あたかも知っているかのように錯覚してい生きることが前提条件として必要ということになる。人間の精神の健全さは誤認に依っているわけだ。この誤認の上に「生きたい」という欲求が加わることで、人のいのちは(死に向かって)前進していく。さらに余談だが、生きたいと逝きたいが同じ音なのは面白い。

話を元に戻す。睡眠中に見ている夢の間も意識を明晰に「ここ」に静かに留まらせる訓練をしていると、夢がまったく起きている(waking)日常と違う別世界ではなく、夢もまた思考であることがありありとわかってくる。起きている間の思考と寝ている間の思考(=夢)は、もちろん性質は違うし脳科学的にも異なる現象だろう。しかし夢は、過去の体験、読んだ物語、学んだ知識、ずっと胸にしまっている感情、家族との夕べのやり取り、大好きな音楽が与えてくれるビート、1年後の自分の状況への懸念、肩にのしかかるプレッシャーなど、日頃私たちの頭=思考を埋めつくすものが、違うバランスで配合されて出現しているに過ぎない。違う配合だからまったくの別世界になるのは、同じ材料を使っても分量と混ぜる順番と変えるだけでスポンジケーキにもパイ生地にもクッキーにもなるお菓子と似ている。火加減で丸焦げになる時があれば、生焼けで液体のままの時もある。まったく違う材料が多少は夢に加わっているだろうが、ベーキングパウダーほどのものではないだろうか。

お菓子作りのような毎日の夢を、まずはどんな材料で何を焼いたのかを明晰に把握する。それから、ではさとうきびから作りましょう、小麦粉から育てましょう。じゃあどの土地の土と水がいいですかね?と一つ一つを手に触れてawakened していくのが、私が取り組んでいるチベットドリームヨーガかもしれない。意識のレイヤー自体を変えることで(大きく3つの意識レベルと対応する身体レベルがあるとされる)、夢の性質と中身をトランスフォームさせ、人間本来が持つ自然体の意識に近づいていく技だ。

 

Wish

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A summer blue flower

wishes to be a butterfly

puts out many buds to the sky

petals in bloom like wings

A summer blue flower

follows a butterfly that flutters in the sky

petals in the dark flickers like wings

ever shining

needled in a box

A summer blue flower

wishes to be a butterfly.

 

碧い花

花は蝶々になりたくて

空に向かってつぼみを連ならせ

羽根のような花弁を生やす

空をひらひらと舞う蝶々を真似て

羽根のような花弁を揺らす

いつまでも消えない

碧の光る羽根

箱の中で針を刺された

碧に光る羽根

花は蝶々になりたくて

 

 

 

 

 

 

 

哀愁の情熱

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自分の根っことはずっと繋がっていた。
好きなことしかやってこなかった。
好きな勉強をし、遊び狂い、旅に行き、たくさんの愛を色んな男性と育て、
好きなことを仕事にするために留学し、自分のための職業を作り、
好きな人とだけ仕事ができ、体が気持ちいい働き方ができる環境を生み出した。

コミュニケーションプロセスデザイナーとして
積み上げてきたものはどれも大好きなことばかり。
すべてに愛と誇りがあった。

でも情熱ではなかった。
私はパッショネットではなかった。
それでよかった。

今月、ベルリンに戻って来てから自分のパッションと繋がった。
愛と情熱の違いを悟った。

これまでは社会のコンテクストに合うように
情熱を鋳型に流し込んできた。
そうとは知らずにやっていた。
好きなことを追求してきたから鋳型に流すことは苦じゃなかったし、
自分の真意や哲学に沿って歩いてきた。
研究したい専攻がある大学を受験し、
大学生として自由な勉強をし、
大学で学んできた面白いことをビジネスに繋げるために留学し、
院で修めた専門性をありのまま使える仕事を始めた。

高校生の時の大学選びの基準は
人間と文化について学べる学部があることだった。

ずっと変わらない。

螺旋を巡り巡って
上昇気流、原点回帰。

ベルリン渡航準備でお金と愛と信頼の循環実験を始め、
こちらに移住してから1年かけて
人間の動物としての本来性を探求するための、
意識と身体とコネクトしつづけるための、
起きている意識と夢の意識の敷居をなくしていくための、
毎日の暮らし方をゆっくりじっくり整えてきた。

整って、一旦離れて、また戻ってきて、
この生においてやり続けたいことを発見した。
否、発見ではない。リコネクト。

だってずっと変わらない。
同じものを見てる。

でももっと広く高い螺旋状の輪に辿り着いた。

私がやりたいのはやっぱり人間の意識という広大なる大自然の冒険。
これまで社会の文脈の中でスポットを見つけたり、
自らスポットを作ったりしてきたけれど、今いる場所は違う。
いわゆる経済活動でも、研究活動でも、アート制作でも、
ポリティカルアクションでも、環境活動でもない。
いよいよ「何者でもない」になっていっている。
ただいのちであること。
動物として生きるというアート。

大学選びという所から始まった探求は年齢がちょうど倍になって、
アウトオブコンテクストな真空管にポッと紛れ込んでしまった。
アウトオブザボックスってイノベーティブでポジティブな感じがするけど
アウトオブコンテクストってちょっとアホな子みたいだw
でも馴染みある懐かしい響き。

私はこういう人間。
一生かけて取り組みたいことが
雲を掴むようなことなんだから仕方ない。
優しい諦めがわたしを包み込む。

でもやっぱり、他者とコミュニケーションが取りやすく(概念化できる)
社会の文脈の中にあるものがパッションとなっている
周りの多くの人たちを淡い羨望の眼差しで眺める自分もいる。
ソーシャルグッドとか、貧困解決とか、子供の可能性とか、平和とか、
病気の撲滅とか、食とか、健康とか、女性の地位向上とか、テクノロジーの発達とか、
建築とか、都市設計とか、政治活動とか、エンターテインメントとか、
絵描きとか、ダンサーとか、小説家とか、ヨーギとか僧侶とか。
やりたいことが社会の何かのためになっている。
表現し、ここに何かを残したい強い衝動を持っている。

私のパッションは「何かや誰かのため」がないし、
表現すること(一時停止し、つかみ取り、外にコミュニケートする)
にもはや必ずしもドライブを感じない。
ただ単に人間の意識と体、ネイチャー、本能、動物らしさを開拓したいだけ。

だから、他者にとっても価値があり、意味があり、目的がある仕事を持ち、
説明(比較的簡単に)可能に生活をしていないことに哀愁を感じる。

そう哀愁。
なぜ自分はそう生まれて来なかったんだろう?って。

コアと繋がって、バッションに従って生きていく決意をした。
でも、どうして自分はこうなんだろう?
どうにもこうにも言葉にしにくいし、
社会に役に立つことに興味は無いし、
なんとも曖昧なことに魅了されている自分を
とても哀しく感じるのだ。

己であることの哀しみ。

パッションを見い出すってエキサイティングで
喜びに満ちたアップリフティングなことではないの?
こんな哀しみに支配され
体を揺らしながら涙するなんて。

でも仕方ない。
甘い降伏。

10代の頃のバイブルを思い出す。カミュの『異邦人』。
母の葬式の日に、まだよく知らない恋人と情熱的に愛を交わしたムルソー。
銃を何十発と連射して男を殺害した理由を太陽のせいだと言ったムルソー。
私は彼の心理がよくわかった。
「それは太陽のせいだ」は大事な言葉となった。

自分である哀しみに打ち震えながら
異邦人を思い出した。
あの頃抱いた人間存在の葛藤と痛みが
体のここに刻まれていたとは。
鋭く重く支配する痛み。

ああ、やっぱりまたここに帰ってきた。

でも、あの頃と違うことが一つある。
私はもう自己存在を罪とは捉えない。
ムルソーのようには裁かれない。

今の私は自分の情熱を愛し、受け入れ、
それに従って生きること、
従うための方法を見いだすために日々の暮らしを作ると決めた。

方角

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人生をアートするとは、小説になるようなグラマラスな毎日を過ごすことではない。言われればすぐに普段の会話を即興パフォーマンスに変えることができる能力でもない。裏山に生えている草木がそのままで完璧な弧を描いているように、平原を駆け抜ける動物が持ちうるすべての力を漲らせているように、一瞬一瞬をあるがままに美しく、満ち足りた状態で、この星に命を受けた生き物の一つとしての本分をまっとうすることだ。社会というコンテクストにおいてミッションや役割を果たすのとは別のこと。

これまでアートする手段としてコミュニケーションを用いてきた。コミュニケーションのプロセスをデザインする。社会や組織から個々の人間関係まで含めた「人との関係性」において、頭に思い描く美しい線が描けるように、コミュニケーションの一筆一筆に意識してきた。何という文字を書くかではなく、筆の払いや墨の濃淡、文字の配置、呼吸との連動に心を配った。

最近はコミュニケーションはメインフォーカスではなくなってきている。死ぬまでずっと追求する題材だが、現時点での最重要モチーフではない。今は呼吸(身体)と意識が鍵だと思っている。コミュニケーションプロセスデザインの定義として、「生まれてから死ぬまで、呼吸のように止むこと無く続けるコミュニケーションは、呼吸と同様に私たちの生存に不可欠に違いない」と謳ってきたが、比喩ではなく実際に自分が働きかける対象が呼吸になった。いずれにせよ、人間が生きているあいだ絶え間なく取り組んでいるものに関心があるようだ。

また、コミュニケーションプロセスデザインではこう書いた。「コミュニケーションは他の生き物とだけではなく、自分自身とも行う。寝ている間でさえ夢を通じてコミュニケーションをする。」今、私は夢という領域へ意識を拡げ始めている。夢の中でもクリアな意識を保ち、起きている時の意識と夢の時の意識の地平を繋げる練習だ。呼吸と夢が数年後になってクローズアップされてきている。とても面白い一致だと思った。

寝ていようが起きていようが、考え事に没頭していようが本を読んでいようが誰かと話していようが、絶え間なく流れる意識の川。しかし私たちは多くの時間、意識の川から離れて岸に上がっている。岸どころか、丘の上までハイキングに行ったり、そこからハングライダーで空を飛んだりしている。自分のそのときそのときの状況、状態を明快に掴みながら1秒1秒進んでいくのは至難の業。

それでも、私は意識の地平の向こうが見たい。冒険家が8000メートルを超える霊峰の頂きや真っ黒い不気味な海底を目指すように。科学者が11次元の世界を仮定するように。そして、人生をアートするために、一瞬一瞬をあるがままに美しく、満ち足りた状態で、この星に命を受けた生き物の一つとしての本分をまっとうするために、重要なthe art (技)となると感じている。

起きている時間と寝ている時間の呼吸と意識の探求。しっかりとこれに従事できる生活環境をさらに整えていくことが2年目だ。この核さえあれば、それ以外は私を求めるところへ赴いて、提供できるものを提供していければいいなと思う。